「仏飯(ぶっぱん)」とは、仏前に供えられるごはんを指す仏教用語だ。仏飯は「仏飯器」と呼ばれる器に、炊きたての状態で盛られる。多くの場合この器は、手のひらに乗せられる程度のサイズだ。形状としては、持ち手の無い優勝杯を想像していただければ差し支えないだろう。
宗派によって異なる仏飯のかたち
浄土真宗・本願寺派における仏飯は、ちいさい山のようなかたちで仏飯器に盛られる。これは、蓮のつぼみを模したものだ。一方、浄土真宗・大谷派では、円筒のかたちに盛られる。こちらは、蓮の実を模したものだ。
なぜ、蓮のかたちを用いるのか。これには、浄土真宗における本尊・阿弥陀如来が関係している。阿弥陀如来は、俗世から遠く離れた極楽浄土に存在している。この世に満ちるすべての煩悩とは無縁の世界、それが極楽浄土だ。そこには、蓮の花が一面に咲き誇っているとされる。いわば仏壇は、その尊い世界と現世を繋ぐ懸け橋なのだ。つまりは結びつきの証しとして、仏壇に供えられる仏飯は蓮の花のかたちをしているのだ。
仏様は仏飯を召し上がるのか
仏飯についての教育は各家庭によって様々だろうが、一般的に仏飯は「仏さまの召し上がるごはん」とされがちだ。たとえば幼い子どもに「どうして仏壇にごはんを供えるの?」と訊かれた場合、多くのひとは「仏さまが召し上がるためだ」と答えるのではないだろうか。しかしその回答は、子どもにひとつの疑問を与える。
「じゃあどうして、召し上がったあとにごはんは無くならないの?」
私は幼少期、周囲の大人に同様の疑問を投げ掛けたことがある。その際に返ってきた答えは「仏さまは湯気だけ吸ってごはんは残すから」だった。その答えを聞いた私は正直なところ「仏さまはそんなもったいないことをするのか」と思った。
仏様に仏飯をお供えすることの意味
大学へ進学した私は、本願寺派の僧侶を務めておられる教授の講義を受けた。講義中に配布された質問用紙に「仏さまはごはんの湯気のみを召し上がるというのは本当でしょうか」と記入した。教授は、私の質問にご回答を下さった。
教授いわく、仏飯を供える意味、それはあらゆるものへの感謝の表れだそうだ。食事に困らずにいられること。命を頂いて生きていること。見守られながら今日まで過ごせていること。つまり、仏さまがごはんを召し上がるか否かは重要ではないのだろう。この世に生きている上で、当たり前のように授けられているすべての恵みに対し、あらためて感謝をする気持ち。仏飯を供える際には、そういったものを思い出すべきではないだろうか。