聶耳(ニエ・アル)(1912-1935)という中国人をご存知だろうか。実は聶耳は中国人民共和国の国歌である『義勇軍行進曲』を作曲者である。耳が上下に三つに更に耳という珍しい漢字の名前が特徴的だが、聶耳という名は上海で明月歌舞団に入った後、彼の聴覚の鋭さに舌を巻いた仲間たちがつけたニックネームで、本名は聶守信である。どうして筆者が彼の名前を知っているかといえば、自宅から歩いて10分弱の藤沢市鵠沼海岸の引地川河口の横に遊泳中に溺死したその人の記念碑が立っているからである。1935年7月17日のことで僅か23歳という若さであった。
聶耳が日本にやってきた経緯
1912年、雲南省昆明に生まれた聶耳は師範学校に進学し、伝統音楽の楽器やピアノ、ヴァイオリンなどの練習に励み、共産党の地下活動に参加し、家族に内緒で国民革命軍に入隊し、出征したりした。卒業後は上海に行き、たばこ店、歌舞団、映画会社、レコード会社などに勤め、やがて映画の挿入歌の作曲を手掛けるようになったが、これが好評で仕事の依頼が増えてきた。そして映画「風雲児女」の詩人田漢作詞による主題歌「義勇軍行進曲」の作曲を依頼された。当時中国は国民党が政権を持ち、共産党を厳しく弾圧し、田漢は逮捕された。大衆の間で人気の高まってきた聶耳もマークされ、逮捕の危機が迫ってきた。そこで聶耳は共産党に日本への亡命を申請し承認されたので来日したのである。
義勇軍行進曲が国歌として正式に認められたのは死後69年後だった
聶耳は日本で「義勇軍行進曲」を完成させ中国に送ると、この曲の力強く明朗な旋律が大衆の心をとらえた。そして1949年の中国人民政治協商会議で正式な国歌が制定されるまでの暫定的な国歌として決定された。
しかし、その後文革の混乱など紆余曲折があり、2004年の憲法改正で国歌は「義勇軍行進曲」であることが明記されたが、それはなんと聶耳の死後69年後のことであった。
聶耳は日本に来てからも積極的に音楽を学び続けた
聶耳は「長崎丸」に乗り1935年4月16日、長崎港に上陸した後、神戸を経て東京で中国の旧友たちが用意した下宿に落ち着いた。そして彼らが通う日本語学校・東亜高等予備学校で日本語を学んだ。
その傍ら東京のめぼしいコンサートには欠かさず出かけ、歌劇、新劇、舞踏を鑑賞するなど、音楽や芸術について精力的に見聞を広めた。更に、在日留学生の団体に招かれ中国の音楽界の現状について講演し、ヴァイオリンで自作の「義勇軍行進曲」などを演奏した。留学資金はそれほど潤沢ではなかったようで、日常生活は質素倹約を貫いていた。日本語の習得に励んで日本人とも積極的に交流したが、日本の左翼活動家と接触した様子はなかった。
藤沢での日本人家族との交流と鵠沼海岸での不慮の水難事故
1935年7月9日、聶耳は朝鮮人の友人李相南に誘われ彼の友人浜田実弘の藤沢の家で数日過ごすことになった。昼は江ノ島を観光し海水浴を楽しみ、夜はヴァイオリンを披露しダンスを教え、浜田一家と打ち解けて音楽談義をして日本人の音楽的教養が高いことに感心した様子が彼の日記に書かれている。
7月17日午後1時半に浜田の姉と9歳の甥、李相南と海水浴に出かけた聶耳は1時間後姉と甥が帰ろうとして李と3人で聶耳を探したが見当たらず、監視所に連絡し大勢で探すも発見できずやむなく帰宅した。翌日警察から遺体が揚がったと連絡が入り聶耳と確認され、医師により死因は窒息死とされた。遺体は荼毘に付され、遺骨は家族のもとに帰り、そして埋葬された。
中国で浮上した謀殺説は否定された
聶耳の死後、上海では日本官憲による謀殺説が出たが、背景には日本での軍部の台頭と日中関係の悪化があったためである。しかし彼は日本で官憲に謀殺されるほど目立った活動をしておらず、脳溢血の病歴、泳ぎがさほど得意ではなかったこと、河口近くで水流が複雑な場所であったこと(私も高校生の時、離岸流に流され危うく溺れかかったことがある)から謀殺説は否定されている。
聶耳ゆかりの記念碑に訪れる中国人はいるのか
記念碑は1954年に建てられたが台風で流出し、1965年に再建された。そして1981年に藤沢市と昆明市が友好都市提携を結んだのを契機に記念碑の周辺が広場として整備された。記念式典には中国要人が来ることはあるが、毎年800万人以上来日する中国人がこの記念碑を訪れることを目にすることは殆どない。
中国人天才作曲家が日本で短い生涯を終えたことは誠に残念だが、日本社会に溶け込み日本人に好印象を持ってくれたことはせめてもの慰めである。