先日センター試験が終了し、多くの学生が努力してきた成果をぶつけてきただろう。思ったよりできたという達成感や思ったよりできなかったという後悔をそれぞれ抱えて、それでもと気持ちを切り替えて国公立の二次試験や私立入試に挑んでいく。この時期の絶え間ない緊張感は、大学受験から数年たった今でもはっきりと思い出せる。
自業自得は仏教用語
とかく、受験とはどこまでも自分自身との戦いだ。筆者はどちらかと言えば目標に届かなかった側の人間で、喜べない結果を目にした時は自分の努力不足を悔やんだものだ。正に「自業自得」だと今でも思う......が、この「自業自得」という言葉が仏教用語だと知ったのは大学に入ってからで、その本来の意味や目的は思っていたものと異なっていた。
善因善果、悪因悪果
「善因善果」と「悪因悪果」という言葉を知っているだろうか。どちらも仏教用語かつ字面通りの意味で、人間は生きている間になしてきたさまざまな「業」によって、来世において再び生まれるという「輪廻」の思想に付随するものだ。この「業」には【体による行為・言語による行為・心による行為】の全てが含まれ、いったんなんらかの行為がなされると、必ず何かの結果に対する原因となる。
たとえば「あんなにも努力したのに叶わな いなんて、善因善果なんて嘘だ」、「あんなにも悪いことをしているのに罰を受けないなん て、この世に悪因悪果なんてない」という使われ方をする。
自業自得には善因善果と悪因善果の両方を含む
では「自業自得」はどうだろうか?ほとんどの現代人は何か悪い結果になったとき、ときだけに用いる言葉だと思いがちだが、これは誤解だ。「自業自得」という言葉の中には「善因善果・悪因悪果」の両方の意味が含まれているのである。つまり、「あれだけ真面目に働いてきたから出世できた、まさに自業自得だ」といった用い方をしても問題ないのに、日本人はこの言葉を悪い意味としてだけ受け止めがちだ。
理由は単純で、善因善果であれ悪因善果であれ、結果がよいときはそのまま幸福でいれば不満もないが、善因悪果や悪因悪果の場合は、なんとかしてその人に結果を納得してもらう必要があったのだ。
善因は善果を生み、悪因は悪果を生む?
すなわち、どんなに努力しても幸せになれない場合は「きっと前世におけるなんらかの行為が原因となってこの世では良い結果に繋がらないだけだから、今は我慢して良い業を積んでおけば、次の世では善果として現れますよ」、あるいは「いまは悪いことをしているけれど前世で積んだ善因のおかげで幸せなので、次の世のためにも悪因を積むのはやめなさいね」などの複雑な因果関係の説明として用いられたのが「自業自得」なのである。
急ぐべからず
「自業自得」とは冷たい言葉だと思われがちだ。しかし、捉え方を少し変えると、長期的に考えればやはり善因が善果を生み、悪因は悪果を生む、という因果応報の原則は変わらず、ただ時間的な遅速が存在しているだけだという諭しの言葉になる
筆者も受験自体は「悪果」となってしまったが、猛勉強の中で培われた忍耐力は多くの「善果」に繋がった。「自業自得」を肯定的にとらえ、長い目で物事を捉で悪果に負けずに善因を積んでいくことができるだろう。