今年も箱根駅伝の日が近づいてきた。自宅が戸塚、平塚間の往路3区、復路8区の沿道に近いので、毎年応援に出かけている。スラットした痩身の選手たちがあっと言う間に駆け抜けてゆく。その真剣で懸命な姿に感動し「頑張れ」と声援して私も青春時代に戻る。
復路8区の最大の難所が遊行寺の坂
この区間の見所は復路の8区となる遊行寺の坂だ。景色の良い湘南海岸に別れを告げ左折し、もうすぐ戸塚の中継点という前に遊行寺の坂が立ちはだかる。この遊行寺の坂が有名なのは、高低差34mの急勾配と長さ730mの上り坂でしばしば波乱が起こるからだ。しかし遊行寺が一体どんなお寺なのかはあまり知られていない。地元の私も一遍上人が開いた時宗の総本山くらいしか知らないので調べてみた。
一遍上人とはどんな人物で時宗とはどのような宗教か
時宗の開祖一遍上人は鎌倉新仏教の開祖の中でただ一人比叡山で修行していない。鎌倉時代の1229年、伊予の道後で豪族の家に生まれ、10歳で出家し法然の孫弟子の聖達上人の元で浄土教を学んだ後、一時還俗したが、一族の領地争いで殺されかけ、再度、出家して窪寺及び熊野権現で悟りを開いた。「念仏を唱えることで浄土往生できる」という教えを布教するため、時衆と呼ばれる僧尼たちと遊行の旅に出て念仏札を配り日本全国を回った。しかし遊行という言葉からは想像できないような乞食坊主集団のような過酷な旅であったので、旅の途中で亡くなる人も多かった。
信濃国佐久では念仏を唱えながら輪になって踊る踊り念仏を始めたが、この時の様子は「一遍聖絵」という絵巻物にも描かれている。この踊り念仏は鎌倉時代から室町時代にかけて、貴族から非人まで大流行した。一遍上人は美服、住居、家族を捨て、遊行の生活を送ったので、捨聖(すてひじり)とも遊行上人とも言われた。僧尼の時衆が教団の名前になり、江戸時代には時衆が時宗となった。時宗のホームページでは時宗とは一遍上人を宗祖、真教上人を二祖として、両祖の教えを基に「南無阿弥陀仏」を拠りどころとする浄土門の一流です、と説明している。江戸時代末期には全国で800余りのお寺があったが、現在では約400となっている。
遊行寺はどのようなお寺でいつ誰が開いたのか
時宗の総本山である遊行寺は正しくは藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさん・むりょうこういん・しょうじょうこうじ)という。遊行寺は俗称で遊行上人が住むお寺ということから、人々によって自然に命名された寺院名で、今では遊行寺の名前の方が一般に通用する。
遊行寺は当初、時宗の藤沢道場として遊行四代呑海上人が俣野の地頭であった俣野五郎景平の実弟であったので兄の支援で1325年に創建した。呑海上人以降の遊行上人は引退した後、藤沢道場に住むようになり藤沢上人と呼ばれた。その後かなり経ってひたすら念仏賦算(賦は配る、算は札)の旅を続ける遊行上人が遊行生活をやめ、遊行上人のまま遊行寺に住むようになり、時宗の総本山としての性格を持つ寺に発展し、江戸幕府から時宗総本山の地位を保証された。ということで、時宗開祖の一遍上人は生涯、遊行生活に明け暮れ、寺を持つことなど全く考えていなかったので、遊行寺との関わり合いは全くないことになる。又、名前が同じで勘違いされることもあるが、鎌倉幕府の北条時宗との関係もなく時宗のお墓もない。
遊行寺の現在の様子を見に行ってきた
昨年8月、毎年境内で開かれる「薪能」を見に行って以来、久しぶりに遊行寺を訪れた。藤沢駅北口から15分ほど歩き、境川にかかる遊行寺橋を渡る。総門を潜ると左手の墓地の突き当りに国定忠治の子分で忠治に忠誠を誓って、忠治と対立する目明しで博徒の自分の叔父親子を殺した板割の浅太郎の墓がある。
浅太郎は忠治と別れた後、仏門に入り、後に遊行寺の堂守になり、鐘つき、参詣者の接待、清掃をしながら念仏三昧、叔父親子の菩提を弔った。その精進、改心が認められ、なんと当時のこの地にあった貞松院の住職になったという。48段のいろは坂を上ると左手に藤沢市の天然記念物の樹齢700年にもなるという樹高約21mの大銀杏がそびえたっている。しかし台風19号の強風で幹が大きく割けてしまったので、お寺では修復と再生のために1口3千円の募金を集めている。遊行寺宝物館には仏教関係の美術工芸品が収蔵されており、現在「礼讃の表現」展が開かれている。印象的だったのは室町時代に作られた木造の空也上人立像の念仏を唱える口から6体の阿弥陀様が飛び出していることだった。
その他にも一遍上人銅像、小田原から戻ってきた鐘楼、東海道随一の木造といわれる本堂、東日本大震災の死者を鎮魂する地蔵堂、浄瑠璃で名高い小栗判官と照手姫のお墓、歴代遊行上人の御廟所、宇賀神社の銭洗い弁天、歌人川田順を始めとする多くの文学碑など見所は多いので、一度は訪れる価値はあると思う。