白一色の裃姿の武士が、三方に乗せられた短刀に手を伸ばし――といえば忠臣蔵などの時代劇でもよく知られた切腹のシーン。このことから「白の裃=死装束」のイメージが強くなっているが、実は白の裃は武士が葬儀に出る場合の衣装、つまり喪服だ。なぜ、映画やテレビでは喪服が死装束として使われるようになったのだろうか。江戸時代の切腹事情についてみてみよう。
自殺方法としては非効率的
切腹が武士の自決方法として確立するのは戦国時代のこと。それ以前にも切腹の事例はあるが、戦に敗れるなどして追い詰められた武士が自ら命を絶つ方法としては、刀で頸動脈を切ったり、喉や胸を突いたりすることが多かった。腹を切れば最終的には失血性ショックで死に至るが、絶命までに時間がかかるため一般的な方法とはならなかった。
切腹が武士の自決方法として広まった理由については(1)「霊魂は腹部に宿る」という武士の生命観、(2)毛利家武将の清水宗治が羽柴秀吉との戦の中で、城の兵を助けることを条件に自決する際の切腹があまりにも立派だったため、などと言われているが、江戸時代以降については何と言っても「武士のアイデンティティーを保つため」が大きい。
武士としての存在感を示すために必要だった切腹による自決
武士は主君のために命を惜しまずに戦うことで、周囲から畏怖され、また尊敬されていた。しかし江戸幕府が成立し、1638年に島原の乱が終結すると、日本国内では大規模な武力衝突はおきず、武士は本来の役目である「戦うこと」で自身の存在価値を示すことができなくなった。
そうした中で、武士が武士であることを示すための方法の一つとして注目されたのが切腹。「非常な苦痛を伴う切腹を自分の意思で行うことは大変な勇気を伴うことであり、その勇気を持っているのが武士だ」という具合に利用されたのである。もっとも、時代が進むと切腹の作法自体も次第に簡略化され、実際に短刀を腹に突き立てることはほとんどなくなった。1703年に行われた赤穂浪士の切腹では、切腹の作法を知らず、その場になって介錯人に尋ねた浪士もいたという。
白一色で画面が映える
作法では、切腹人の装束は「白無地の小袖に浅葱色の裃」とされている。また切腹をする場の畳の下には浅葱色または青色の布を敷くとされており、意外と色彩豊かな空間となっている。この理由には、白一色だと血の赤が目立ちすぎて凄惨すぎるから、というものがあげられる。
では、映画やテレビではなぜ衣装も含め白一色なのか、と言えばこれは何といっても「画面が映える」から。白一色とすることで、荘厳で厳粛な雰囲気を醸し出すことができる。「映え」を気にするのは今に始まった話ではないようだ。