人の死後について、世界に宗教は無数あるが、大きく分けて他界派と転生派に分けられるとしても間違ってはいない筈だ。
他界派はキリスト教、イスラム教が代表だが、神道では「根の国」「黄泉の国」といった他界を説き、輪廻転生を説く仏教にも浄土教などひとまずは他界派に属するとしてよい宗派がある。
一方で転生派は原始仏教や禅宗、ヒンドゥー教などのインド思想。また神智学、前世療法など近代のスピリチュアリズムは東洋思想への傾倒から転生思想を採用しているものが多い。
もちろん我々は死んだことがない以上、死後のことは知る由もない。寧ろ現実社会にこうした宗教観が人生観、人生そのものにどのような影響を与えるかについて考えてみたい。
他界派~人生は一度きり~
他界は霊・魂が死後に向かうとされるいわゆる「あの世」の世界である。天国・極楽などの光の世界と、地獄・冥界などの闇の世界に分けられ、生前の行いによって行き先が決められるというのがおおよその伝統的な教えである。天国・極楽はユートピアであり、現世で徳を積めば死後苦しみのない世界で生きることができるされる。現実逃避ともいえる思想であるが、念仏を唱えるだけで極楽往生間違いなしと説く浄土教は貧困にあえぐ民衆に生きる活力を与えた。この世を超越する価値観は生きていく上での支えになるのだ。浄土真宗の清沢満之(1863~1901)はこれを「倫理以上に大安心の立脚地」と呼び、他界の存在に寄りそうことで現世を不安なく生きていく道を説いている。
他界派は輪廻転生を否定しているが度が過ぎると…
当然ながら他界派は輪廻転生を否定する。転生を否定することは、「人生は一度きり」という覚悟を決めることであり、過ぎ去りつつある瞬間は取り戻せないことを自覚することである。一度きりの人生はかけがえのないものであり、神から与えられた大切な命である。他界観は現実を否定するのではなく、この命を全うすること、生きることの尊さを教えてくれるのである。
しかし、一歩間違うと現実を軽んじやすくなり、恐るべき弊害も生まれる。「ヘヴンズ・ゲート事件」(注)は典型的な例で、汚れた現世から天国への脱出を謳ったものであった。自爆テロなども天国で素晴らしい報いを得られると信じるが故に、死の恐怖を克服してしまうことで実行を可能にさせてしまう他界観の負の原理が働いている。
(注)1997年 アメリカの宗教団体「ヘヴンズ・ゲート」は、地球に接近したへールボップ彗星を天国から来たUFOであるとみなし、魂となってこれに搭乗するとして教祖以下38人が集団自殺した。
転生派~人生は一度きりではない~
転生派には人間以外の、動物や昆虫に生まれ変わることもあるとするタイプ1と、人間は人間以外に生まれ変わらないとするタイプ2に分けることができる。仏教、ヒンドゥー教などの伝統的な転生派宗教はタイプ1。ヘレナ・ブラバッキー(1831~1891)の神智学、ルドルフ・シュタイナー(1861〜1925)の人智学といった近代オカルティズム、スピリチュアリズムにはタイプ2に属するものが多い。
タイプ1は、生きとし生けるもの全てが等しく、生命の輪でつながっている・・・というと今時の環境問題にも通じるようだが、人外に生まれるのはあまり想像したくない光景である。だからこそインド人は輪廻を恐れ、輪廻の輪を抜けて「解脱」することを目指した。
タイプ2は転生する度に魂が高いレベルに進化していくとする、一種の「霊的進化論」である。タイプ1は円環・循環型、タイプ2は螺旋上昇型といえる。どちらも現世における所業によって輪廻の行方が決定することには変わらず、善く生きる倫理的な生き方が要請される。
転生派の弊害はというと…
今生と来世という思想は他界観とは対称的に、「人生は一度きりではない」という認識により、現在の自身の環境に折り合いをつけることができる。また、前世の業(カルマ)による意味付けで恵まれない境遇を受け入れ、来世に向けての希望・努力を持つことで現世を生きていく活力を見いだす効果も期待できるだろう。その点については、魂の進化を説くタイプ2でより顕著である。転生派の弱点としては我々自身がそうであるように、前世の記憶がないことだろう。個の記憶が保ちえないなら全くの無と変わらないのではないか。
また、他界派の弊害と同様の弊害が転生派にもある。「慈悲の精神」による殺人は代表的な例で、救われない命を来世に生まれ変わらせるために殺すという論理である。オウム真理教が「ポア」と呼ぶ殺人行為を犯したことは有名だが「ポア」とは本来、魂を肉体から抜くとされるチベット密教の身体操作のことを指す。この「魂を抜く」作業を殺人行為として歪曲して魂を救うと称したのがオウム事件であった。しかし、オウム事件は特別なものではない。宗教がこの世の倫理を超えるものである以上、こうした毒は常に内包されている。
もしも我が子に先立たれたら…
筆者の個人的な見解だが、子に先立たれた人に新たな命が芽生えた時「この子はあの子の生まれ変わりだ」と思うことがよくあるようだ。親としては当然の感情だろう。実際に前世の記憶を持つとされる症例も報告されている。しかし、もし仮に他界が存在するとしたらどうだろうか。他界にいる子供の霊は「僕はここにいるよ」と言いたくなるのではないだろうか。他界観を採用すれば転生派が「真実」であっても、転生した魂は基本的に記憶はないのだから、先立った子供の霊が他界にいると考えても問題ない。科学的無神論からすれば馬鹿馬鹿しい話かもしれないが、墓参りに行き死者に語りかけている自分を想像してもらいたい。概念はともかく、死者の霊・魂に対する態度は真摯に考えるべきだと思うがいかかだろうか。
宗教観の活用の仕方
他界派にも転生派にも様々なタイプが混在しており、キリスト教にあって転生を説いたカタリ派などの異端思想もある。本来はここで書いたような単純なものではないが、宗教観を現実に生きる上でどう活用するか、生きていく根拠、死の恐怖、死者とどう向き合うかなどを考える入口としては有効だと思われる。また、命に関わる弊害を内包している事実も知っておくべきだろう。