今日も鬼才と称される歌川国芳(1798〜1861)の手による、「道外十二月ノ内 極月 大晦日の鬼」(1842年頃)という浮世絵がある。提灯を持ち、江戸の町人の身なりをした閻魔大王が、部下の鬼たちを従えて、町中を歩いているものだ。一体、何の情景を描いているのか?
閻魔大王のイメージと言えば…
当時の商売は掛売りだったため、大晦日に1年分のつけを取り立てて回る商人たちの「冷酷無比」な風情を、冥界・地獄の王で、死者の生前の罪を裁く閻魔大王になぞらえたのだろう。事実、井原西鶴(1642頃〜1693)が書いた『絵入 世間胸算用 大晦日は一日千金』(1692年)に、大坂・住吉神社で、当時の人々が行っていた「年籠(としごも)り」、すなわち、大晦日の夜から社寺に参籠して、そのまま新年を迎える風習は、実は借金取りを逃れる手段としてよく利用されていたということが記されている。それは、新年の鐘が鳴ったら、借金取りはそれを潮に、引き揚げる決まりになっていたからだ。
地獄や極楽浄土などの死後の世界について
現在我々は、自身が悲惨な状況に在る際、「生き地獄」と言ったり、地震や台風などの自然災害の苛烈さを目にした時、「地獄のような大惨事」「まるで地獄絵図だ」と言い表したりする。しかし我々は、生前、悪いことをしたら、死んだ後に堕ちるとされる「地獄」、或いは「地獄」「極楽」を含む「死後の世界」というものを、果たしてリアルに捉えることができるのだろうか。
閻魔大王の起源
「極楽」はさておき、日本的な仏教観に彩られた「地獄」といえば、先に登場した閻魔大王だが、「閻魔」は梵語のYamaの音写で、raja(ラージャ。王)をつけて、「閻魔羅闍(えんまらじゃ)」とも、省略して「閻魔羅(えんまら)」、または「閻魔(大)王」とも呼ばれる。インドのヴェーダ期(BC1500〜BC500年)の神格だ。
初めは天上の楽土で暮らしていたが、後に下界に移り、死後の世界の支配者となった。しかし中国唐代(618〜907年)の密教における「閻魔」は護法神で「閻魔天」と称され、南方を守護する神である。更に閻魔と地蔵菩薩が同体と考えられるようになり、尊崇を集めるようになった。
閻魔大王は日本にどのように伝わったか
その影響を受けて、日本においては、閻魔大王は平安時代(794〜1192年)の『日本霊異記』や『今昔物語集』に登場したり、鎌倉時代(1192〜1333年)には、唐末期の中国で道教と結びついて成立した、冥界において死者の罪を裁く10人の王を信仰する「十王(じゅうおう)」信仰が日本の支配層のみならず、庶民に至るまで受容されたことから、十仏事の中で五十七日に当てはめられ、地蔵信仰と共に広く信心されていた。
そしてそれは江戸時代(1603〜1868年)においても継続し、旧暦1月16日の初縁日、7月16日の盆の縁日の両日は地獄の釜の蓋が開く日であるとして、100カ所、閻魔大王を祀る寺を巡る、「百閻魔」が盛んに行われていた。例えば江戸百閻魔は、蔵前の長延寺(ちょうえんじ)を1番として、目黒、品川を経由し、千住まで一巡するもので、近在の寺もそれに合わせて、地獄絵図や十王図を掲げていたほどだったという。そのルートに入っていた品川区南品川の長徳寺(ちょうとくじ)は、今日では静寂な空気に包まれているが、かつてはこれらの日に多くの人々が参詣していたと言われている。
閻魔大王が登場する仏教説話
閻魔大王が登場する仏教説話としては、例えば平安末期に成立した『今昔物語集』に、摂津國豊島郡(現・大阪府池田市全域、豊中市、箕面市、吹田市の一部を含む)にあった多々院(ただのいん)に身を寄せていた男の話(巻第13、第6)がある。
男は多々院で、法華経を日夜唱え、山林での仏道修行に専心していたひとりの僧を尊び、常にそのそばにいたのだが、ある時、病にかかった後、亡くなってしまった。しかし5日後に男は蘇った。男は妻子に、死後の世界での出来事を語り始めた…。
蘇った男は閻魔大王をどのように語ったのか
冥界で閻魔大王は帳面を繰りながら、善悪の業を記した札を調べ、俺にこう言った。
「お前は生前の罪業が重いため、地獄に遣わすはずであるが、今度だけは罪を赦し、すぐ元の国に帰してやる。それは、数年来、心を込めて法華の持者を尊敬し、共に祈っていた功徳によるものである」と。そこで俺は閻魔の庁を出て、人間界に戻ることになったが、その途中で、金・銀・瑠璃・玻璃(はり)・瑪瑙(めのう)・硨磲(しゃこ)・珊瑚の七宝(しっぽう)でできた塔を見つけた。しかもその塔に向かって、常日頃、俺が慕っていた僧が、口から火を吹きかけているのだ。そこへ空から声が聞こえてきた。「僧が法華経を唱える功徳によって、この宝塔が虚空に出現したのだが、僧は時に、激しく怒り恨む瞋恚(しんい)の心で、弟子や童子を叱りつけることがある。その怒りの火が宝塔を焼いているのだ。しかし、もしも怒りの心を止めて、法華経を読誦し続けるなら、このようにとても麗しい宝塔が世界に充満するだろう。このことをすみやかに僧に告げよ」と言った。その言葉が終わったと同時に、俺は生き返った…。
それから男は、僧の元に出向き、冥界での仔細を語った。すると僧は自らの振る舞いに恥じ入り、かつ、後悔して弟子や童子を帰し、たったひとりで一心不乱に法華経を読んだ。男もまた、前にもまして、僧を崇めた。それから数年後、僧は法華経を読みながら死んでいったという。
地獄を恐れ悪行を止めるために重罪を科した閻魔大王
日本思想史の研究者・佐藤弘大によると、中世期の日本には、「彼岸の本仏、此土の垂迹」というコスモロジーがあったという。それは、他界の本仏は、娑婆世界の衆生を救うために垂迹という形を取って、この世に出現した。その中には閻魔大王も含まれていた。
閻魔大王の究極の目的は、衆生を浄土へと送り届けることだった。それゆえ、閻魔大王が過酷な刑罰を科するのも、人々が地獄に堕ちるのを恐れて、悪行を止めるように仕向けるためだった。つまり、冥界に堕ちた罪人に悔い改めを促し、それに同意したなら、人間界に送り返すことも、当然の振る舞いだった。
さらに、閻魔大王が支配する地獄という「場所」は、閻魔大王そのものが垂迹であるため、「極楽」のような他界にあるのではなく、我々のいる世界の中ではあるが、例えば富山県・立山(たてやま)の地獄谷のような、山奥の特定の「場所」や、我々が日々踏みしめる大地の奥深いところに、亡者の集まる「地獄」があると考えられていたと論じていた。
最後に…
それでは現在、「死後の世界」はどうなっているのだろうか。結局、「死んでからのこと」を我々は体験し、それを語るすべはない。世界中の様々な「臨死体験」にしても、その人がかつて読んだり、観たりことがある映画・ドラマ・小説・漫画・アニメなどで提示されたイメージが、死に直面し、意識が混濁した際、脳内によみがえり、まるで現実にその場にいたかのように思わせられる、ある意味「夢」「錯覚」に過ぎないのではないか、と言われれば、それまでだ。だが、我々が「地獄」と表現してきた人生のひとコマや、悲惨な事件事故、災害などと比べものにならないほどひどい「場所」に、場合によっては、「日頃の行い」や「過去の罪」によって行かねばならないとしたら、今の「ひどさ」や「悲惨さ」を、何とか、今だけだ。いずれは終わる…と自分を励ましながら、現世での「地獄」を生き延びてきた人々を見習うことしか、今を生きる我々にはできない。
もちろん、「そもそも天国も地獄もない。死んだらゼロ!無しかない。だから今、自分は好き勝手に生きる!」という考え方もあるだろう。それもまた、「死後の世界」が存在するか否かがわからない現状においては、「正解」かもしれない。
ただせめて、どんな形でも、死ぬことそのものから逃れることができない我々だからこそ、1日1日を悔いなく生きるしかない。だがそれが極めて難しいのもまた、人間の業、宿命ではあるが。
参考資料
■古田紹欽・金岡秀友・鎌田茂雄・藤井正雄・相賀徹夫(監修)『佛教大事典』1988年 小学館
■馬淵和夫・国東文麿・稲垣泰一(校注・訳)『新編日本古典文学全集 35 今昔物語集 1』1999/2003年 小学館
■谷脇理史・神保五彌・暉峻康隆(校注・訳)『新編日本古典文学全集 68 井原西鶴集 3』1996/2003年 小学館
■品川区教育委員会(編)『しながわの史跡めぐり 増補改訂版』2005年 品川区教育委員会
■佐藤弘大『死者のゆくえ』2008年 岩田書院
■品川区(編)『品川区史 2014 歴史と未来をつなぐまち しながわ』2014年 品川区
■福田智弘『「川柳」と「浮世絵」で読み解く よくわかる!江戸時代の暮らし』2018年 辰巳出版
■「長徳寺・閻魔堂」『しながわ観光協会』
■「かわいい浮世絵 おかしな浮世絵 会期 2019年1月5日〜1月27日 作品リスト」太田記念美術館(PDF)