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会葬者が2万人にもおよんだという国会議員も務めた九州の大親分 吉田磯吉

2017年の消費者白書によると、調査対象13〜29歳の若者の中で、将来に「希望がある」と答えたのは日本では12.2%。アメリカの若者の55.6%と比べると、遥かに低い値となった。一方「希望がない」と答えた日本の若者は12.3%、アメリカではわずか2.8%しかいなかった。それは言うまでもなく「少子高齢化社会」によって、自らが年老いてからの年金受給は見込めないように思われること。しかも彼らにとっては遠い未来への不安ばかりではなく、今現在の日本国内の景気低迷、経済不安、雇用不安…など、「今我慢していれば、いずれは…」という、「明るい未来」への展望が全く描けないことから来ているのだろう。


希望がない時代に羨望の眼差しを向けられた吉田磯吉

しかも昨今の、主に若者世代による、嫉妬に満ちたネットでの「炎上」などに関して、社会学者の小谷徹は、財政難が足かせとなって八方塞がりになった日本の現状の中、有効な政策を実現できない政府、または政治家の側があえて「スケープゴート」を提供し、人気取りに専心するポピュリズムが蔓延する中、自分たちの生活を良くすることができないのなら、自分たちより少しでも「恵まれた」者を叩いて憂さを晴らすしかない「空気感」について指摘している。

そうした人々からすると、嫉妬や羨望の眼で捉えられてしまいかねない、あるひとりの大親分がいた。その名は吉田磯吉(1867〜1936)。

吉田磯吉は福岡県の遠賀(おんが)郡芦屋(あしや)の生まれ。明治・大正・昭和初期における筑豊石炭鉱業並びに、主に大阪方面への石炭の荷出し港であった若松港の発展において欠かせない人物の一人である。火野葦平(1907〜1960)の小説、『花と竜』(1953年)や『女傑一代』(1954年)に登場するのみならず、親分衆の束ね役・地域社会の利益代表者・政治家・実業家・調停役・管財人・よろず引き請け業など、多面的な「顔」を持つ人物であった。


吉田磯吉の生い立ちから頭角を現すまで

吉田磯吉の父方の家系はもともと、四国・松山藩に仕える武士だった。10代目に当たる父・徳平は同藩の者と争いを起こし、脱藩することとなり、全国各地を転々とすることとなった。磯吉が生まれて程なくして、父親が亡くなり、残された家族は貧困に陥ってしまった。しかも武士の家系でありながら、一家は芦屋においては最下層の立場である「他国からの落人(おちうど。無籍者)」としての蔑視を受ける日々でもあった。そんな吉田磯吉は9歳で丁稚奉公に出された後、野菜や鮮魚の行商を行ったりしていたが、16歳で遠賀川(おんががわ)の艜(ひらたぶね)乗りとなる。そこで多くの人々と交わる中、任侠度胸の道を歩み始めた。その後吉田磯吉は、1891(明治24)年の筑豊興業鉄道(現・JR九州筑豊本線)開通以降、衰退しつつあった遠賀川水運に見切りをつけ、発展途中にあった若松港に移ってから、港近辺の会社や商店、妓楼(ぎろう)などの用心棒となり、商売敵と果敢に戦う「親分」としての頭角を現していく。


危険極まりない地域だった若松における吉田磯吉が放つ存在感

当時の若松は、ジャーナリストの大宅壮一(1900〜1970)に、「日本における“暴力の街”ナンバー・ワンといえないまでも、ビッグ・スリーには確実に入る」と言わしめた「場所」だったが、吉田磯吉はその「空気」に飲み込まれたり、傲りの果てに足元をすくわれ、自滅してしまったりすることはなかった。発展・拡大の一途を辿る若松港周辺には福岡県内はもちろんのこと、九州・沖縄の各県、近在の山口県のみならず、中国地方や京阪神から流れてきた大量の人々、そして「ゴンゾ」と呼ばれ、自らを「下罪人(げざいにん)」と自嘲しながら、喧嘩っ早く、仕事が終わった後は「飲む・打つ・買う」などの娯楽を好み、「宵越(よいご)しの金を持たない」といった刹那的な生活を送った、筑豊各地の「川筋(かわすじ)気質」を有した石炭仲士たち、彼らを「得意客」とする盛り場の大繁盛、更に若松の向かい側に位置する八幡(やはた)に官営八幡製鉄所(現・日本製鉄八幡製鉄所)の建設工事が始まった頃には、全国各地からおよそ2万人の土木関係の労働者が集中していたという。

そうした「無秩序」状態の筑豊〜若松〜八幡を含む福岡県北部において、「物静か」「温厚篤実」「物腰も極めて慇懃で、一見好々爺」「とても人なつっこいというか、いわゆる魅力がある人」と評され、生活訓を「度胸は忍耐。白刃の下をくぐったり、鉄砲弾の下をくぐってゆくのは、本当の勇気というもんじゃない。そして、悪いことをせぬことじゃ…」としていた吉田磯吉は、「前科と刺青のない親分」「子分のために死ねる親分」として、腕力や胆力のみならず、「調停役」「相談役」としての知力も駆使して、頂点にのぼり詰めたのである。

それはひとえに、新興都市、或いは日本そのものが近代化に向かいつつあったものの、前時代的な「親分」「子分」の絶対的な主従関係が「当たり前のもの」として存続し続けていた「時代の空気」「場所の空気」によって、アウトロー気質の男性のみならず、ごく普通の一般大衆にさえも、任侠的気風が歓迎され、吉田磯吉という人間そのものを後押ししたためであったことは言うまでもない。


衆議院議員にまでなった吉田磯吉

しかも吉田磯吉は地域、或いは九州各県を超え、京大阪、果ては関東にまでも顔が利く「親分」「顔役」のままで終わることなく、1915(大正4)年には民政党に属する衆議院議員となり、17年間活動した。議員時代の吉田磯吉は、1921(大正10)年、政友会の日本郵船乗っ取りを、筑豊一帯から300〜500人にも及ぶ、「顔役」「親分」「子分」たちを東京に集めて「手ぐすねを引いていた」など、持ち前の「親分肌」を忘れることはなかった。更に吉田は実業の才能もあったため、吉田商事株式会社、若松魚市場、若松運輸、石炭鉱業互助会、山九運輸、大谷炭鉱、戸畑魚市場などを興すなど、地域振興に大いに寄与した。晩年の吉田磯吉は健康がすぐれず、何度も病に倒れた。最終的に急性虫様突起炎穿孔、及び肺炎で亡くなった。70歳だった。


吉田磯吉の葬儀

吉田磯吉の葬儀は、吉田磯吉の養子であり、後に若松市長も務め、プロテスタント教会の牧師でもあった敬太郎(1899〜1988)によると、「どえらい葬式」だったという。本来は亡くなった2〜3日後に出すつもりでいたのだが、「自分が行くまで葬式を出すな」という大量の電報が届いていた。敬太郎が「それは困る」と返信すると、「お前だけの親父じゃない」と、全国各地、果ては監獄の中からすら、返事が来る。その結果、荼毘に伏されてから葬儀が行われるまで1週間かかったという。

浜町小学校(現・若松中央小学校)の校庭を「民政党福岡県支部葬」の葬儀会場とし、その準備のため、若松にあった遊郭の12軒を全て借り切り、作業に関わる人々を宿泊させた。葬儀当日には、遠方からの会葬者と、吉田磯吉が檀徒であった若松の西念寺(さいねんじ)のみならず、京都の本山・西本願寺からわざわざ訪れた、総勢70人余りの僧侶たちが泊まることになった。葬儀の日は霰が舞う寒い日だったものの、会葬者は、当時の若松市の総世帯数約13500世帯を超える2万人。その葬列は、2キロにも及んだ。しかも詰めかける会葬者のために若松駅はごった返し、臨時で筑豊線と鹿児島本線に二等車を連結運転するほどでもあった。その中には、地元市議、県議はもちろんのこと、元首相の若槻礼次郎、民政党総裁の町田忠治。更に在郷軍人分会会員、吉田磯吉によって若松に結成されていた消防組員、少年団、愛国婦人会会員、西念寺婦人会、若松見番の芸妓たちなどが訪れた。市内の商店は吉田磯吉への哀悼の意を表し、臨時休業した。また、霊前に供えられた清酒20樽、供米は1200俵、服役中の囚人からのものを含む弔電は1450通、弔旗・提灯・放鳥・盛物は1000以上。届けられた花環は1000余対…「大親分磯吉」は、警察・市民総出で見送られたのである。


献体を遺言書にしたためていた吉田磯吉

このようなドラマチックな生涯を送った吉田磯吉だが、「死後の後始末」もまた、鮮やかなものだった。

幼少期の吉田磯吉は、松山藩を脱藩した元士族の子であったにもかかわらず、よそからの「流入者」ということで、吉田磯吉同様、農業を営んでいた元福岡藩士の「トントン(お坊っちゃん)」だった杉山茂丸(しげまる、1864〜1935)から、一方的にいじめられ続けていた。腕力には人一倍自信がある吉田磯吉ではあったが、武士の「上下関係」を重んじていた吉田磯吉は、腰に木や竹の「刀」をつけて、殴りつけてくる杉丸に一切歯向かうことはなかった。しかもそれは吉田磯吉が大親分になってからも続いていたようで、控え目に下座に座る吉田磯吉に、横柄な態度を取り続ける政界の「黒幕」かつ、「ホラ吹き杉丸」と渾名されてもいた杉山に対して、吉田磯吉を慕う周りの人々は、「あれ程にされるのにと、多少癪にさわる」と陰で言われるほどだった。

そんな杉丸だったが、失われた権威を笠に着た、単なる「嫌なヤツ」ではなかった。敬太郎によると、杉山はある時吉田磯吉に、「君の胃袋を見せてやれば、(新しい)博士が沢山出来る…(略)…俺も死んだら遺骸を帝大に寄贈して研究のお役に立てて貰うつもりだ。殊に(1914(大正3)年、48歳の頃、胃がんの切除手術を受けた)君のは世界に類例のない胃袋だから、決して空しく灰にしない様に」と語った。それを吉田磯吉は笑ってうなずいていたという。吉田磯吉は杉丸の言葉を聞き流すことなく、献体の意志を遺書にしたため、後世の医学に役立つよう準備していたのである。


献体の結果はというと…

21年前に胃がん手術で切除されていた胃が、標本として九州大学に保存してあったことが幸いし、福岡県在住の医師、宮城順・木村三朗によって、吉田磯吉の死亡当時の胃と比較検証され、1937(昭和12)年に「胃癌切除二十一年七ヶ月後に於ける消化器の態度に就て」という医学論文が記されたのである。それによると、切除されていた胃は全体の3分の1または2分の1に相当し、しかも間違いなく癌にかかっていた。吉田磯吉は、手術後1年間は食事に注意し、毎食を少量ずつ摂取するように心がけていたものの、それ以降は酒を飲んだり、餅を食べたり、人よりも多く間食するなど、欲するままに飲食していても、がんが再発することはなかった。しかも解剖の結果、吉田磯吉の残された3分の2から2分の1の胃は多少拡張し、多量の飲食物を容れても十分なほどまでになっていたことが明らかになったという。

また、吉田磯吉に献体を勧めていた杉丸だが、「屍体は全て国有にすべし。死後はその体を医学などの役に立てることが人たるものの務め」という考え方を持っていたことから、死後その遺体も、現在の東京大学医学部に献体された。杉丸の遺体は解剖実習の後、あらゆる臓器・肉・筋を取り去って骨格標本にされ、現在も所蔵されているとのことである。


最後に…

現在の若者世代が、自分の周囲にいる、彼らの目線からは「老害」でしかない人々からの「自慢話」や「手柄話」、そして当時の映画やテレビのドキュメンタリー番組、或いはインターネットなどで触れる昭和の日本の高度経済成長期、そしてバブル経済期の「上り調子」「浮かれた空気」と「今」とを比較して、「今」は「暗い」「希望がない」と悲観する前に、少し考え方を変えて欲しいと筆者は思う。「今」は確かに「暗い」かも知れないが、そう「見える」のは、「今」だけであり、30年、40年、50年後の若者世代の人々からは、むしろ、「うらやましい」ものに見えるかも知れないのだ。そもそも、インターネットというインフラ、パソコンやスマートフォンといったツールの存在、そしてそれらを当たり前に使いこなせることだけでも、「団塊世代」「バブル世代」の「若い頃」よりも「発展」「前進」しているのだ。もちろん、そうした社会システムが完全無欠の「素晴らしいもの」とは言い切れないが。そしていずれ人は、どんなに浮かれていようと、落ち込んでいようと、死んでしまう。今の「暗さ」を逆に千載一遇のチャンスと捉え、一心不乱に生きて欲しい。吉田磯吉にしても、幼少期から恵まれて、常に人から脚光を浴び続けていた境遇ではなかったのだ。今の若者世代のように、「他人から自分がどう見えるか」を一切気にせず、「男」を磨いた一生だったからこそ、立派な死後の「支度」が行えたのである。そうした意味でも、吉田磯吉は「大親分」と言えるだろう。


参考資料

■小塚參三郎『若松繁盛誌』1896年 若松活版所
■「外科醫學の大衆版 吉田親分の胃袋 胃癌を手術 酒と煙草の廿年」『やまと新聞』1936年4月3日 (2頁)
■「胃癌は全治す! 冥土から打碎く 醫學の難礁 さすが大親分 故吉田磯吉氏 特志解剖の大成果」『時事新報』1936年4月3日 (2頁)
■宮城順・木村三朗「胃癌切除二十一年七ヶ月後に於ける消化器の態度に就て」『實地醫家ト臨牀』第14巻 第3號 1937年(18−23頁)大道學館出版部
■下中邦彦(編)『日本人名大事典(新撰大人名辭典)』第3巻 1937/1979年 平凡社
■吉田磯吉翁傳記刊行會(編)『吉田磯吉翁傳』1941年 吉田敬太郎(非売品)
■夕刊フクニチ新聞社・ふるさと人物記刊行会(編)『ふるさと人物記』1956年 フクニチ新聞社
■高野貞三『若松政界太平記 上』1957年 九州民報社
■大宅壮一『日本の裏街道を行く』1957年 文藝春秋新社
■岩井弘融『病理集団の構造:親分乾分集団研究』1963年 誠信書房
■読売新聞西部本社(編)『福岡百年 (下)』1967年 浪速社
■猪野健治『俠客の条件 実録・吉田磯吉伝』1977年 双葉社
■米津三郎「吉田磯吉」西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部(編)『福岡県百科事典 下巻』1982年(1062頁)西日本新聞社
■滝井義高「炭鉱の生活」磯村英一・一番ヶ瀬康子・原田伴彦『講座 差別と人権 六 底辺社会』1986年(61−79頁)雄山閣
■田中邦博・長弘雄次「創成期における若松港・洞海湾の開発に関する史的研究」土木学会(編)『土木史研究』第18号 1998年(579-594頁)土木学会
■河村一夫「杉山茂丸」臼井勝美・高村直助・鳥海靖・由井正臣(編)『日本近現代人名辞典』2001年(552頁)吉川弘文館
■ハッピーナインAZABU、DVシネマJAPAN(制作)『実録プロジェクト893XX ヤクザの全貌 伝説の親分編 3 明治・大正・昭和、九州ヤクザの源流を探る』2005年 GPミュージアムソフト
■波平恵美子「遺体」新谷尚紀・関沢まゆみ(編)『民俗小事典 死と葬送』2005年(19-20頁)吉川弘文館
■宗田裕美子「献体」新谷尚紀・関沢まゆみ(編)『民俗小事典 死と葬送』2005年(39-40頁)吉川弘文館
■福田和也『日本国怪物列伝』2009年 角川春樹事務所
■小谷徹『ジェラシーが支配する国 日本型バッシングの研究』2013年 株式会社高文研
■日外アソシエーツ株式会社(編/刊)『昭和人物事典 戦前期』2017年
■「高塔山公園」(北九州市
■「将来に希望を持てない日本の若者 国際比較で見る驚きの低さ」『woman’s labo』2018年5月18日
■「吉田敬太郎」『公益財団法人 北九州市芸術文化振興財団』「北九州の先人たち


ライター 鳥飼かおる
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