私が銀行に就職して最初に配属されたのは横浜の鶴見支店であった。近くには總持寺があり、銀行の大事なお取引先で、時々お賽銭の集金を手伝いに行ったものだ。又、結婚前に亡くなっていた義父の葬儀も總持寺で行われたとのことで、その後改葬され新たに總持寺にお墓が建立され、最近亡くなった義母も義父のお墓に納骨された。ということで總持寺との縁はなにかと深い。總持寺は曹洞宗の大本山である。ところが高校生の時、修学旅行で行った福井県の永平寺も曹洞宗の大本山である。普通、一宗派に一つの大本山であるのにどうして曹洞宗には二つの大本山があるのだろうか。
総本山、大本山、本山、末寺など本末制度とは
日本の仏教は長い年月を経て多くの宗派に分かれてきた。現在日本には約8万のお寺があると言われるが、宗教法人に登録されているお寺は一部を除いて必ずどこかの宗派に属しており、それらのお寺を統括する代表が「総本山」とか「大本山」とか「本山」などと呼ばれている。その下には「本寺」「中本寺」「直末寺」「孫末寺」などの寺格というランク付けがなされている。
総本山はその宗派の起源となるお寺で、大本山は祖師や開山・開基などに縁のあるお寺である。こうした本山と末寺の関係を「本末制度」と言い、江戸時代に幕府が仏教教団を統制するために設けた制度で、すべてのお寺をどこかの宗派の管轄下に組み入れ、上下関係を作り、本末帳を提出させ、幕府は本山を通じてすべてのお寺の統制を図ったのである。
格付けから言うと一般的には総本山、大本山、本山の順だが、宗派によっては使い方が異なっている。主な13宗派で見ると総本山が7宗派(律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、時宗、日蓮宗)、大本山が5宗派(法相宗、華厳宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)、本山が1宗派(浄土真宗)となっている。
禅宗とはどのようなものか
曹洞宗は禅宗の一宗派である。禅とは瞑想して心身を統一することで、坐禅を修行形態とする仏教集団が禅宗である。元々インドの精神文明すべてに共通するヨーガの実践課程のうち精神の浄化法の一段階であったのが、仏陀の仏教にとりこまれ主体的精神的傾向を強めたものである。今日禅宗と呼ばれる宗派は北魏末に中国に来たインド僧達磨を初祖とし、その後五家七宗に分かれ、宋代以降は臨済宗楊岐派と曹洞宗の2派だけとなった。
日本へは白鳳時代に伝来し、平安時代には天台教学の一つにもなっているが、独立した宗派として花開くのは鎌倉時代で、栄西の臨済宗と道元の曹洞宗が興り、江戸時代には明僧隠元により黄檗宗が開かれた。
臨済宗と曹洞宗はどのように違うのか
代表的禅宗である臨済宗と曹洞宗の違いは臨済宗が坐禅を悟りに達する手段と考え、その最中、公案を思索し工夫する「公案禅」であるのに対して、曹洞宗は坐禅に目的も意味も求めずただ黙々と壁に向かって座禅をする「只管打坐(しかんたざ)」で、修行する坐禅の姿そのものが悟りの姿だと「即心是仏」をとなえた。また、曹洞宗は権威に近づかず下級武士や一般民衆の間に広まり、臨済宗は鎌倉幕府の庇護のもと上級武士に広まった。
曹洞宗に永平寺と總持寺の二つの大本山がある理由とは
曹洞宗のホームページを見ると以下のように書かれている。
「曹洞宗とは『道元禅師』が正伝の仏法を中国から日本に伝え、「瑩山禅師」が全国に広められ、「曹洞宗」の礎を築かれました。このお二方を両祖と申し上げます。曹洞宗には大本山が永平寺と總持寺と二つありこれを両大本山と言います」
二つある理由についての説明はない。道元が建立したのが、大佛寺、後の「永平寺」であり、瑩山が能登半島にあった諸嶽観音堂の住職からこの寺を譲り受け、改名したのが「總持寺」である。(能登で570余年もあったが、1898年、火事で焼失したため横浜の鶴見へ移転した。)
大本山が二つになった経緯は永平寺三世徹通の時代に道元の只管打坐に基づく厳格な禅風を守ろうとする保守派と柔軟に教えを広めようとする徹通等進歩派に分かれ、徹通は永平寺を去り大乗寺に拠点を置いた。その弟子瑩山は曹洞宗の大衆化に努め、台密や東密、白山信仰や山王権現信仰、熊野信仰など、さまざまな教えを取り込み、多くの逸材を育て、全国各地で驚異的発展を遂げた。更に室町後期になると永平寺をも占拠するようになり、実質的に瑩山派により曹洞宗が再統一された。そのため道元が開いた曹洞宗の原点であり聖地である永平寺と曹洞宗発展に多大の貢献をした中興の祖である瑩山が開いた總持寺がともに大本山になったのであるが、朝廷から大本山の認定を受けたのは、總持寺が1322年で永平寺は1372年と總持寺の50年後となっている。