牛というのは、非常に人間と性格が似ているらしい。酪農家の家に住まわせてもらった時に、雌牛とその子どもであろう子牛を、離れ離れにしたことがあった。翌日、雌牛は隣にいるはずの子牛がいないことに対し、昼夜問わず悲嘆に感じる鳴き声で呼び続けていた。しかも、人が住んでいる母屋から雌牛の様子を伺うと、こちらを見ているのである。生き物全てそうかもしれないが、非常に感慨深いものがあった。
牛の恵みが仏教での最上の食べ物
醍醐という古来の乳製品をご存知だろうか?これは、製法が今ではわからなく幻の食品と言われている。バターのようなヨーグルトのようなもので、ほのかに甘みがあるのだとか。そんな幻の食品が仏教の大乗経典の「大般涅槃経」にも記載されている。
「牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生蘇を出し、生蘇より熟味を出し、熟味より醍醐を出す。醍醐は最上なり。もし服する者あらば衆病皆除く。あらゆる諸楽ことごとくその中に入るがごとく仏もまたかくのごとし。」
深い味わい、最上の味という意味とされる「醍醐味」は仏教用語で乳製品からきている。乳製品は古代から貴重なタンパク源であったと同時に最上の美味しい食べ物とされてきたのであろう。
禅の教えに牛を用いて説いている「十牛図」
仏教では人の根底にある「真の自己」を牛で表した「十牛図」がある。それは牛との関わりから牧人が真の自分とは何かという悟りを開くまでのストーリーである。牛を真の自分の姿と例えており、牛は「真の自分」に置き換えてその図を見て欲しい。十牛図は中国の宗の時代に禅の入門書として描かれたもので第1~第10の図と詩の構成されている。
十牛図(第1図〜第5図)
第1図「尋牛」は牛を探し始めた人が描かれている。その人は川沿いの野道を一人で途方もなく歩いている。探している牛というのは、牧人が真の自分の事を探し始めたという事である。
第2図「見跡」は牛の足跡を見つけた様子が描かれている。やっと険しい道のりの上で手掛かりが見つかった。真の自分とは何なのか、どこにいるのか迷っている道に灯がともった段階である。
第3図「見牛」は牛の姿を初めて見つけた様子が描かれている。全体像ではないが、真の自分の姿というものを僅かながら見えたのである。ただ、まだ捕まえるのには距離がある状態である。
第4図「得牛」は牧人が縄で牛を捕らえた様子が描かれている。しかし、牛を捕らえる事は容易ではなさそうだ。牛は逃げようと暴れており、牧人は牛を抑制する事に必死である。真の自分を捕らえたが、真の自分と葛藤をしている状態である。
第5図「牧牛」は牧人が牛を手なづけて縄を引いて歩いている様子が描かれている。手綱が必要であるという事は、まだ牛と信頼関係は結べていないが、牛がおとなしくついて行っているという事は、真の自分に対してまずは寄り添ってみようとしている状態である。
十牛図(第6図〜第10図)
第6図「騎牛帰家」は牧人が牛の背に乗って家に帰る姿が描かれている。しかも、牧人は牛の背で楽しそうに笛を吹いているのである。真の自分と一体になり、しかも楽しんでいる状態である。また、家に向かうという事は自分を見つける旅を終えるということも表している。
第7図「忘牛存人」は牧人が家に着き、牛を忘れてくつろいでいる様子が描かれている。牛は描かれてはいない。それほど、牛いわゆる真の自分を探していた事を忘れ、ありのままの自分として生きている状態である。
第8図「空」は円形の縁があるだけである。禅における書画の一つ「円相」が描かれている。牛も自分も全て忘れて執着から解放された状態である。
第9図「返本還元」は川と花が咲きこぼれる木という美しい風景が描かれている。第8図を得て外界をみていると美しい自然が目に入る。日々の暮らしに追われて真の自分を失ったが、旅を得て、真の自分を捕らえて、忘却し、自然のありのままに戻った状態でもある。
第10図「入鄽垂手」は恰幅のいい男性が着飾る事なく自然の姿のまま町へと向かう様子が描かれている。その男性とはと年月が経った牧人である。牧人は行く先で童子に笑顔でありのままの自分という教えを説いている。
現在の牛との関わりから
牛の最大寿命は20年といわれているが、現在、日本の乳牛の5〜6年経つと乳量が減るため、肉として出荷されるそうだ。現在は食卓で製品としてみる事の方が多いように思うが、本来は昔から牛と人間との関わりは深いものがあったと思う。ただ牛乳を飲むのではなく、牛から牛乳という布施をいただいているという気持ちでいただくと、醍醐味を感じる事ができるかもしれない。