日本人の心性を代表するものに「感謝」がある。神社仏閣、ビジネスの現場から街角、果ては誰もいない道場や野球のグラウンドに至るまで、あらゆる場所に日本人はお辞儀をし感謝の心を捧げてきた。こうした日本の礼儀は海外でも注目され、先のラグビーワールドカップでは海外の選手が開催国日本の「オモテナシ」への感謝として、観衆に向かってお辞儀をする光景が話題になった。この感謝の心は死者に対する祈りにも含まれており、一方で西欧ではその対象は異なっている。
「死者」への感謝
葬儀や法事、墓参り、仏壇などへの日々の祈りに込められた思いには様々なものがある。以前、墓参りの意味について書いたことがあるが、死者への思いの中でも日本人の心性には日々の「感謝」の心が存在する。かつてお世話になったことへの過去形の感謝だけではなく、現在の日々の生活への感謝である。すでに死んでしまった故人に何を感謝するのか。
多くの日本人はそのような疑問は持たない。我々は彼岸にいる家族や友人恩人が、日々の生活を見守っててくれていると感じるし、彼らに感謝するのは当然だと思う。これは理屈ではない。故人・先人のおかげで我々は生きているという思いから感謝の心が生まれる。そして仏壇を拝んだり、墓参りに際して、懐かしさや親しみの他に、感謝の念をもって手を合わせるのである。故人・先人への感謝の祈りは、神仏に捧げる祈りと同じ心性である。
「モノ」や「空間」への感謝
感謝の心は人だけに向けられるものでない。日本には付喪神や八百万神などという多神教的宗教観が根付いており、長い年月を経たモノには命が宿るとされた。それだけでは怪談で終わりかねないが、それだけの年月を働いてくれたモノに対して感謝を捧げる気持ちが向けられるのである。
「針供養」という行事がある。折れたり錆びたり使えなくなった針を豆腐やこんにゃくなどに刺して供養する行事である。東日本では2月8日、西日本では12月8日に行うことが多い。長年働いてくれた針を柔らかい豆腐に刺して休んで頂くというものだ。浅草の浅草寺などで年中行事として行われているが、昭和の昔は家庭で見られる風景であった。
また、野球部の球児たちが球場に一礼をすることや、学校で生徒が掃除することがよく海外で話題になる。武道の道場は基本的に素足であり土足は道場を汚す行為として固く禁じられる。もちろん出入りの際には一礼だ。日本以外でこうしたことはあまりなく、道場もダンスホールも同じ板であり神聖視することはない。考えるまでもなくその方が合理的である。誰もいない空間に一礼をする光景は、最近でこそ日本の美しい道徳、マナーの表現として見直されているが、一見しただけでは理解し難いだろう。
日本人の感謝とは異なる一神教の感謝
日本人には当たり前のこととして身に付いている人・モノに限らない万物への感謝の心が、欧米では奇異に見られることも多いのは、キリスト教やイスラム教などの一神教の影響が大きいと思われる。
一神教では唯一絶対の神のみに価値を置く。それ故「神の似姿」である人間と、動物・自然の間に序列が生まれ、感謝の祈りを捧げるべきは天にまします神のみとなる。プロテスタントでは人は死後に天に召され、神の下で安らかにいるとされるので、祈りは人ではなく神のために捧げられる。 葬儀の祈りにも神への感謝と遺族を慰めるために行われるのであって、故人に向けられるものでない。まして安らいでいる故人は感謝の対象にはならない。
人間と自然の序列
自然に対しても同じことである。キリスト教的世界観にとって自然崇拝は野蛮な異教の思想だった。地上のすべては唯一神が創造したものであるから、自然は序列では人間の下に位置する汚れた存在だったのだ。
キリスト教教会は布教の際に土着の信仰を巧みに取り込んでいった。一例としてイースター(復活祭)がある。元々ドイツなどの地方では、春分の日は太陽が夜に打ち勝つ太陽の復活を祝う祝祭で、多産の野ウサギを豊穣のシンボルとして春の訪れを祝った。そこにキリスト教が布教され、太陽の復活はキリストの復活に差し替えられた。イースター名物のウサギはかつての自然信仰の名残である。唯一神の権威を確立するためにも自然崇拝は排除するべきものだったのだ。
「神の似姿」である人間には自然を支配する権利があり、神の創造した世界・宇宙の仕組みを解くことができるとする発想が、西洋世界における科学の発達の背景となったと言われる。
事実、ガリレオ、ケプラー、ニュートン、パスカルといった歴史上の天才科学者(当時は科学哲学者と呼ばれた)は、いずれも敬虔なキリスト教徒であった。自然崇拝の排除というと良いイメージはないが、我々が享受する科学技術の恩恵が、自然を敬い、感謝する文化からは生まれなかったのは確かである。
「感謝」の行方
感謝の心は日本人だけのものではないが、死者やモノ、空間にまで捧げる心性は世界で注目されている。しかし唯一絶対の存在に感謝し、寄り添うことの効用もまた大きい。孤独を癒し生きる目的を与えてくれるからだ。安易な折衷主義に陥ることなく、互いの良いところを取り入れていくべきである。