昨今はインターネット社会を反映し、必ずしも「プロ」ではない人が、Twitterで偶然つぶやいたシンプルな言葉やフレーズが驚くべき勢いで、国境を超え、世界中に広がっていく。そうした中、「詩」は果たしてどんな意味を持つのだろうか。
詩人・吉野弘が遺した言葉
「豊かに」
塚本正勝さん/四十五歳/元・三井三池炭鉱の優秀な採炭夫/現在/大牟田労災療養所で/四十四人の同僚患者と共に/神経機能障害回復のための/訓練の日を送っている。
昭和三十八年十一月九日/第一斜坑で大規模な炭塵爆発事故発生。/一千四百人の被害者中/九百四十人は救出されたが/内、八百三十九人が/一酸化炭素中毒のため神経機能麻痺。/大部分の人は/治療の見込みのないまま/
現在まで/十年間のうつろな時を積み重ねている。
療養所の一室で/塚本さんが今/他の患者たちと/言語機能の回復訓練を受けている。
文字を書いた紙が/左右の黒板に何枚かずつ貼ってある。/その中の二枚を一組みにして/意味の通る言葉にする。
塚本さんが椅子から立ち上がった。…(略)…右の黒板から/「豊かにする」と書かれた紙を剥がし/…(略)…少し考えて/「苦労を」と書かれた紙の下に貼りつけた。/−苦労を・豊かにする−。/塚本さんが/
陰にいるもう一人の塚本さんの手を借りて/自分の運命を正確に揶揄してみせたかのように。…(略)…
いつどんなときにのこした言葉か?
これは詩人の吉野弘(1926〜2014)が1973年11月に、NHKのドキュメンタリー番組『空白の歳月・三池CO患者の十年』を観ていた時に、番組内で登場した元採炭夫の塚本さんのエピソードに登場する言葉、「苦労を豊かにする」が、「私の中に鳴り続けていた」ため、「目の前の昏くなるようなこの経験を文字にしておきたいと思った」と話し、残した言葉だ。
その時、メモ用紙などの準備がなかったため、4日後の再放送に際し、吉野は筆と紙を持ってテレビを見た。テープレコーダーは、録音に執着し、引き回されるおそれがあるので、あえて使わなかった。たとえ「現代的」なメディアであるテレビに映し出されるものであっても、「目で見、耳で聞きながら刻々の事象の強さに全身で応じよう」と、番組の「実況」的に書かれた「詩」である。
この言葉の中にどんな詩心があるのか
「ほとんど素材だけで成り立っているこの作品を『詩』と称するつもりは私にない」と断った上で吉野は、この「詩」の中に「詩」、或いは「詩心」があるとしたら、そのシーンを観た瞬間の吉野を狼狽させ、心に深く刺さった、「苦労」と「豊かにする」という言葉の組み合わせの、ある種の「異常さ」を挙げている。
すなわち、本来「豊かにする」の言葉の前に用いられるのは「くらし」だったり「精神生活」だったりするが、「苦労を豊かにする」ということは、「苦労」を存分にさせられるという、むごい意味にどうしても傾いていく点にある。もちろん「苦労」の果てに、偉業を成し遂げるだとか、精神的な崇高さがもたらされるという意味もあるとはいえ、このフレーズが行き所なく立ちすくむ姿があり、吉野自身、動揺せずにはいられなかったという。
そもそも詩は自由だ
そうは言っても、「詩」、それも決まった形式を持たず、平易な現代語で記された「詩」の場合、多くの調査、言葉や修辞の選択、推敲に推敲を重ねて仕上げられたものであると、完成までに費やされた「時間」や、作品そのものの「量」によって明らかに知り得る「長編小説」「年代記」などとは異なり、「短い」「わかりやすい語句」が用いられているため、それが世に出た瞬間、「有名な大詩人」ではなく、「一般人」「アマチュア」の手によるものであったとしたら、「これは詩じゃない!」「誰だって/自分だって書ける!」「『詩人』だと、自分に酔っているだけ!」「自己満足!」「イタい!」…などと、その「内容」「質」を吟味する前に、ある種の悪意をもって誹謗中傷の渦の中に巻き込まれてしまうことが少なくない。ことに誰でもがSNS上で自由に自分の「思い」を発信できる現在においては、なおさらだ。
しかしそんな今の時代でも、「詩」または「詩心」を我々が喪失してしまっているわけではない。例えば相田みつをの「にんげんだもの」や金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」などのフレーズは、子どもからお年寄りまで、あらゆる世代の人々の心をとらえて続けている。
詩人・柿添元が遺した詩
「せめてもの」
ぼくが死んだら/裸のまま/土葬してくれ/せめてもの/恩返しがしたいから/でも/それが不可能なら/焼け残った骨は/海に捨ててくれ/墓などいらぬ/金は/
生きるもののためにこそ/使わなければならぬ/だから/ぼくは/土になれないのなら/無になりたい/それが/せめてもの/ぼくの望みだ…(略)…
この詩は、主に福岡県を拠点に活躍した詩人・柿添元(かきぞえ・げん、1918〜2008)が、死の1年前に記した作品だ。どこか「遺書」めいた味わいがある。この部分だけを見れば、「自分だって似たようなことを考えていた!」「歳を取った人間なら、誰でもみんなそう思ってる!」「日記?」「メモ?」などと、先に挙げたような「そしり」は免れないかもしれない。しかし柿添はプロの詩人である。「シロウト」の、日本全国の多くの「自分」とは違う。この後に柿添は、
ただし/それも叶わぬなら/かってにしろ/俗に言う/死人に口なしだからな
と、読む者を冷たく突っぱねる。批判のみならず、「自分も同じことを考えていた」と、「散り際の桜の花の潔さ」などと甘美な「死の美学」に酔っている読者の「酔い」さえ、否が応でも覚醒させ、「キレイゴト」では決して済まない世の現実の厳しさ、冷たさを、我々読者の前に突きつける。
柿添元は亡くなるまでの17年間を左半身麻痺の寝たきりで過ごした
柿添は早稲田大学を卒業後、九州電力で働きながら、詩作に励みつつ、「兵隊三部作」の火野葦平(1907〜1960)、映画やドラマ、舞台などでよく知られる『無法松の一生』の原作、『富島松五郎伝』(1941年)の岩下俊作(1906〜1980)などを輩出した同人誌『九州文學』の編集に携わるなど、九州文学界に多大な貢献をなした人物だ。そんな柿澤だったが、順風満帆な創作活動を行えていたわけではなかった。脳梗塞で倒れた後、亡くなるまでのおよそ17年間、左半身麻痺状態で寝たきりの生活を余儀なくされていたにもかかわらず、詩を書く情熱は終生衰えることはなかった。死の間際の2008(平成20)年、当時90歳の柿添は「生きなければ」で第38回福岡市文学賞・詩部門を受賞している。
「生」そして「死」を嫌でも意識せずにはいられなかった日々を生きた柿添だからこそ、「せめてもの」において、冷徹ながらも、ただ殺伐とした空気ばかりではなく、思わず乾いた笑いを誘ってしまう、人間の弱さや哀しさを「自然な言葉」で表現している。しかも最後の5行を読み終えた後、また最初に戻って読み返した読者に、「やられた!」「参った!」「さすが!」と、頭を下げざるを得なくなる、柿添独自の詩世界を展開させているのだ。
辻井喬こと堤清二が考える詩や詩心とは
1980年代からバブル崩壊時期まで、主に東京圏在住・在勤の若者世代を中心に、最新流行や文化の発信源として知られたセゾングループのトップ、「堤清二」でありつつ、作家・詩人・文芸評論家としても活躍した辻井喬(1927〜2013)は、日本国内におけるインターネット社会到来直前の1994(平成6)年に、以下のように語っている。
「詩が、本当に詩といえる作品になっているかどうかについては、個性がどれくらいはっきり出ているかがたいへん重要な要素…(略)…現代詩を書いている人は数え切れないくらいいますが、この詩はあいつでなければ書けない、という風な詩はそんなに多くない」とし、「詩人には、詩を生み出す力−おそらく、音韻あるいは音の響きに対する感受性、それから想像力、そして象徴(シンボル)を操作できる表現力が必要」と述べている。
柿添には間違いなく、辻井の言う詩人の「基本条件」が備わっていたと言えるだろう。しかしその当時ですら、「想像力の住処はコマーシャリズムによってまったく占領されており」、「『すべてが他人事で少しもかまわない、今のままで自分たちは十分幸せなんだから』という意識が成立してしまっている」ため、「想像力の働きようのない社会が成立してしまっている…(略)…そこに加えて情報化社会…(略)…没倫理、没思想的なマスメディア時代」によって、「詩」や「詩心」が日本国民の多くの心から失われてしまっていると、辻井は憂いていた。
最後に…
とはいえ、ただひたすら、詩作に自分自身を捧げていれば、「周りの誰か」と「見ず知らずの匿名の存在」、いずれからも「せめてもの」のように、多くの人々の心をつかむ作品を生み出せるだろう。殊に「死んでからの自分」を「こうしてほしい」「こうなりたい」というのは、性別・世代・自分自身の背景や人生経験を問わず、「気になること」であるし、だからこそ、「今は、考えたくない。でも、いずれは必ず、考えなくてはならない」ことだからだ。
「死」は「終わり」ではない。「死」に「生きている人間」が真摯に向き合うことが契機となって、吉野や柿添とは異なった、オリジナルの「詩」や「詩心」を生み出す、新しい詩人が誕生しうるのではないか、と筆者は考える。
参考資料
■吉野弘『現代詩入門』1980/2014年 青土社
■辻井喬『詩が生まれるとき 私の現代詩入門』1994年 講談社
■葦平と河伯洞の会(編)『火野葦平 2 九州文学の仲間たち』2005年 花書院
■波左間義之「柿添元」志村有弘(編)『福岡県文学事典』2010年(271-272頁)勉誠出版