古来より日本では、死後の世界というものが信じられてきた。悪人は地獄に落ち、善人は極楽へたどり着くというものだ。これは仏教が生んだ思想だが、遙か昔、古代エジプトにもそういった考えがあった。古代エジプトでの当時の平均寿命は20歳から25歳。地上での人生があまりにも短かったことから、来世に第二の人生が用意されていると夢想したのかもしれない。この来世での再生をできるだけ確実なものにすることが、古代エジプトにおける埋葬のテーマであった。
自然環境と死への恐怖
エジプトは国土の95パーセントが砂漠の国である。その中で最も大きいのがナイル河の存在だ。ナイル河は古代エジプト文明の源流であり、その流域に住む人々の生活を支え続けてきた。この河は日々の生活に必要な水を提供するだけでなく、人々の暮らしを豊かにする上でもう一つの役割があった。それが、毎年定期的に起こった増水である。川岸を越えてあふれ出した水は、エジプト全土の耕地を覆っていった。そして、水は四ヶ月にわたって耕地にとどまり、上流から運んできた養分を与え、土壌の中の塩分を洗い流した。水が引いた後の耕地は、種まきに適した土壌になったのである。年間降雨量がわずか数ミリ程度の砂漠気候にあってエジプト文明が成立したのは、ナイル河が存在したからに他ならない。古代エジプト人は、自分たちが恵まれた環境の中で生活していることをよく自覚していた。しかし、満たされた生活には、それを失うことへの恐怖も伴う。古代エジプト人は現世への執着と死に対する恐れを抱き、死の恐怖を克服するための思想を作り上げていったのである。その基礎となったのは、やはりナイル河を中心とした自然環境であった。
魂の行き先
安住の地にたどり着くために死者は旅をしなければならない。安らぎを得るためにはそれなりの代償を払う必要がある。古代エジプトにおいてもこのような艱難辛苦の思想があった。古代エジプト人の死者が目指す先は、地下世界の支配者であるオシリス神の館であった。死者はナイル河を船で渡り、そこで生前の行いについて審判を受ける。この試練をパスすることが出来なければ来世での再生もかなわなかったのである。最後の審判では、神々に生前の行いについて告白した後、心臓の計量が行われる。真実を見抜く女神、マアトの羽根飾りと心臓が天秤にかけられるのだ。死者の告白が真実の場合は釣り合い、嘘偽りの場合は心臓が重く傾く。釣り合った心臓は無事来世に行くことができるが、重く傾いた心臓は天秤のそばに控えたアメミットという幻獣に食べられてしまう。心臓を失った死者は、もう来世での再生ができない。そこには天国も地獄もなく、ただ「二度目の死」が訪れるのである。
来世の世界
ではその長い試練の道のりを経てたどり着いた先には何があるのか。来世で死者が過ごす場所として特によく描写されるのは「葦の野」と呼ばれる土地である。鉄の壁で厳重に守られたこの土地は、魚も蛇も棲まない水路があり、水路の岸辺には重たげな果樹がなっている。畑では人の背丈の倍ほども伸びた小麦が長さ1メートル以上の穂をつけて収穫を待っている。この理想化されたナイル河谷こそ、古代エジプト人が夢見た来世の姿である。さらに、葦の野には集落があり、家族や友人、雇っていた召使いまでが再び出会える場所であった。死者はここで飲み食いから娯楽に至るまで生前に行っていたあらゆることが出来ると考えられていたのである。しかしこの葦の野には、「供物の野」という別称がある。来世にやってきた死者には、それぞれ等しい面積の畑が分け与えられ、神々に供物を捧げることが義務づけられていたのである。私たちが来世と聞いてイメージするのは、現世の様々な労苦から解放された天国や極楽といった楽園だが、古代エジプトにおける来世には、労働の義務が存在しており、その決まり後を見る限り、古代エジプトの来世のイメージは我々日本人とは少々異なっていたようである。
埋葬から見る来世への強い願望
古代エジプトでは、人間は死後、肉体と二種類の魂に別れると言われていた。肉体と分離した魂は審判を経て、肉体へ戻ってきた後に再合一し、再び肉体に宿るというのだ。こうして再生が行われるわけだが、魂が帰還しても器の肉体がなければ再生には至らない。そこで肉体の保存のために考案されたのがミイラである。ミイラは、エジプトのような乾燥地帯の環境下では永久的に形を保つことが出来る。医術が進んでいることで名声を得ていた古代エジプト王国には、それだけの技術があった。来世での再生を確実なものにするために、ミイラの保存はとりわけ厳重に行われ、防衛するための策も講じられた。中王国時代の王のピラミッドからは、棺の安置してある玄室とは別の方向に侵入者を導く偽の通路や隠し扉のような、凝った仕掛け、幾重にも張り巡らされた落とし戸などが発見されている。さらに、ピラミッド内部には、万が一肉体が損なわれた時のことを想定し、その予備までもが用意されていた。墓の中には、故人の彫像や壁画に描かれた肖像などがあり、墓荒らしや盗掘などに備えていた。何らかの形でミイラが破壊された場合、魂は代替品にも宿ると考えられていたのである。ここまでいくと、用意周到と言うよりも涙ぐましさばかりが目につくようである。
長きにわたる繁栄
古代エジプトは5000年以上前から死後の再生という発想を抱き、3000年以上にわたってそれを維持し続けた。古代エジプトの王、ツタンカーメンはしばしば少年王と呼ばれ、夭逝した悲劇が語られるが、当時19歳で逝去したツタンカーメンは適齢だったとも考えられる。それでは古代エジプト人は死に囚われた人生を送っていたのだろうか。否、来世の描写からも窺えるように、古代エジプト人が現世の生活や人間関係を大切に思っていたのは間違いないだろう。古王国時代後半以降、夫婦だけでなく、親族までが同じ墓を共用する家族埋葬が流行した。もちろん全ての家族が仲むつまじく、良好な関係にあったわけではないだろう。しかし、親しみ深い人間関係こそが死への恐れを和らげたのではないだろうか。若干20歳そこそこの若者たちが国を治め、ミイラ作りを考案し、ピラミッドを建設する。環境は違えども、古代エジプト王国の若者のエネルギーには舌を巻くものがある。
参考資料
■和田浩一郎「古代エジプトの埋葬習慣」(2014)