8月初め出光美術館で開催されていた「唐三彩―シルクロードの至宝」展を見てきた。唐三彩は20世紀初頭の中国で鉄道敷設工事中に唐時代(618年~907年)の墳墓から偶然発見された緑釉、褐釉、白釉(透明釉)という三色、あるいは緑釉、褐釉、コバルトを用いた藍釉を加えた三色など多彩な鉛釉を施した人物、動物、器物をかたどった陶器で、主として副葬品として制作されたものだ。中国の長い歴史と広大な土地を考えると、まだまだ数多くの歴史的遺産が地中深く静かに眠っているに違いない。
20世紀最大の考古学的発見であると言われる「兵馬俑」
1974年3月、干ばつに見舞われた驪山のふもとの西揚村で、農民が井戸を掘っていた時、発見したのが世界を驚かせた秦の始皇帝の墓を取り囲むように配置された8千数百体に及ぶ兵士や馬をかたどった「兵馬俑」である。兵士俑や馬俑だけでなく馬車、戦車、兵器の俑も発掘されている。「俑」とは古代中国で副葬品として埋葬された人形のことである。「兵士俑」は180cmあり、一つとして同じ顔はなく、秦が中国の西にあったため、全員東を向いて、東にいる敵ににらみをきかせている。
発見当時は色鮮やかな着色が残っていたものもあったが、すぐに退色してしまった。現在一号坑(総面積1万4260㎡)、二号坑(総面積6000㎡)、三号坑(総面積300㎡)の俑坑が発掘され、地下建築の形態、内容が試掘により確認されている。20世紀最大の考古学的発見と言われる兵馬俑は「秦始皇帝陵及び兵馬俑坑」として世界遺産に登録されていて、兵馬俑博物館も建設されている。
秦の始皇帝とはどんな人物でどんなことをしたのか
戦国時代に秦王朝に生まれた政(秦の始皇帝、紀元前259年~紀元前210年)は父の荘襄王が早世したため13歳で王位を継承したが、年少のため政務は丞相の呂不韋が執り行った。
この呂不韋は政の母が丞相王と結婚する前の愛人であり、政の父とも言われている。政は22歳で加冠(元服)し、国の政務を執るようになった。そして紀元前221年、東にあった斉、楚、燕、韓、趙、魏の6か国を破り、中国初めての統一国家を築いた。
統一後、先ず王にかわる「皇帝」の称号を名乗った。次に周時代の封建制を止め、郡県制を施行し中央集権的統治を行った。ついで天下の武器を没収して都の咸陽に集めた。更に度量衡、車軌、文字、貨幣を統一した。また法による統治を行い、批判する学者(儒家及び方士)や本の弾圧を行った焚書坑儒でも知られる。万里の長城の建設(明が建造した現存の万里の長城よりもっと北にあり、燕や趙が築いた長城を補強しつなぎあわせた)や自らの陵墓や兵馬俑の建設など大規模な土木事業も行った。徐福という部下に不老不死の薬を探すよう命じたりもした。
そして5度目の天下巡遊の旅の途中、病を得て49歳で亡くなった。その4年後の紀元前206年に秦は漢に破れ滅亡した。わずか15年の短命におわった秦帝国ではあるが、歴史上に巨大な足跡を残したと言えるだろう。
秦の始皇帝陵墓の規模
陵墓の建設は即位後から70万人もの労働力を動員して始まったが、始皇帝の葬儀時にはまだ完成していなかった。規模は兵馬俑を含まず総面積24万9775㎡と世界でも類を見ない広さである。しかし地下宮は正式に発掘されていないため、規模よりも始皇帝本人が埋葬されている地下宮の所在とその中身の方が関心を呼んでいる。
司馬遷の史記によると
司馬遷の「史記」に始皇帝陵について多くのことが書かれているが、その信憑性について多くの謎が浮かびあがっている。先ず「水銀の海や河川を造った」と書かれているが、土壌サンプルを採取して分析したところ、土壌の水銀含有量が異常に高いことが判明したので、史記の記載は事実である可能性が高いと推測されている。
第二に地下宮殿内は「金雁、珠玉、翡翠など無数の珍宝で満ちている」と書かれているが、始皇帝陵墳丘から20m離れた宮殿外苑から精巧に作られた銅馬車や金製、銀製の装飾品が多数発掘されたことから、宮殿内には想像を絶するほどの宝物が存在しているかもしれないと思われている。
第三に「地下宮殿には勝手に中に入る者がいれば、矢を自動的に発射する機械制御の大弓が設置されている。」と書かれているが、果たして2200年前に自動制御の武器があったのか謎である。
第四にどのような方法で地下水を遮断し、排水しているのかも謎である。一部の研究者は先ず銅を溶かしてその中を固め、次に石をはめ、その上に漆を塗り、最後に丹を塗って、地下水が地下宮に滲み入るのを防いだと推論している。しかしこの方法で徹底的に水の浸水を防げるかどうか疑問をもつ研究者は多い。
楚の項羽の大軍による陵墓の掘り起こしや破壊、焼き討ちやその後の盗掘もあり、地下宮殿の現状がどうなっているのか興味は尽きない。