盆踊りの起源は諸説あるが、はっきりした形として文献に登場するのは空也(903~972)の念仏踊りである。盆踊りとはお盆に「帰省」する死者を供養するための宗教儀式であった。時代と共に宗教的意味合いは薄くなり、村や町などの共同体の年中行事となっていったが、なぜ踊ることが死者の供養につながるのか。そもそもなぜ人は踊るのだろうか。
盆踊りの今と昔、伝統と現代
阿波踊り、郡上おどりと並び、日本三大盆踊りと称される西馬音内の盆踊(秋田県雄勝郡羽後町西馬音内)には、彦三頭巾(ひこさずきん)という踊り子が登場する。浴衣や平袖に深編笠や、目だけを出した頭巾を被った、亡者に扮した踊り子が、先祖の霊と一緒に踊るというもので、伝統的な盆踊りの姿が継承されている。
一方で、現代的にアレンジされた盆踊りも登場している。渋谷のスクランブル交差点で行われる「渋谷盆踊り大会」には3万人を超える参加者が各々の踊りを楽しんでいる。こうした現代風盆踊りは各地で行われており、中野では「エヴァンゲリオン盆踊り」なる催しも行われた。こうした風潮に眉を潜める人もいるかもしれない。しかしこれらは踊りの原点に回帰しているともいえるのだ。
なぜ踊るのか。踊りの起源とは
日本神話に有名な「天の岩戸」の物語では、岩戸に閉じ籠ったアマテラスオオカミを外に誘ったのは、アメノウズメノミコトの踊りであった。ウズメの踊りは次第に激しさを増し、神がかりとなり、ある種のエクスタシーに達していたとされる。その熱気は周囲の神々をも巻き込み、アマテラスも出てこざるをえなくなった。熱気が熱狂を生んだのである。
人は楽しいとき、喜ぶときなどには、歌を歌ったり踊りたくなる。逆に暗く沈んでいるにはとてもそんな気にはなれないものだ。特に踊りは身体全体で表現するだけに気分が高揚する。人の歴史は踊りの歴史でもあった。
「昔から人は事あるごとに踊りました。豊かな収穫を願い、狩猟の成功を祈って踊りました。ある時は健康のため、士気を高めるため、そして祝うために。踊ることで、生を祝うのです。昔から人は踊ってきました。今も同じです」(映画「フットルース」より)
なぜ踊ってしまうのか
なぜ人は踊ってしまうのか。それは生きているからだろう。生きることは動くことであり、動くことは生きることである。踊りは生きていることの表現に他ならない。では、寝たきりの病人は?脳死や植物状態の人は生きているとは言わないのか。
生きとし生けるものは常に動いている。一見止まっているように見えても動いている。森羅万象動いていないものはない。回復の可能性もある植物状態は当然として、脳死と呼ばれる人達もそうであると筆者は思う。
SF漫画「コブラ」に筆者の好きな場面がある。敵に捕らわれ、肉体の感覚をすべて遮断された海賊・コブラ。そこは普通の人間なら発狂してしまう、五感を遮断された絶対沈黙の世界。しかし彼を孤独にし、自我を崩壊させることはできなかった。
「感じたさ それもロックがきこえたんだ。外界ではなく オレ自身の体の中でな」
「空気はホルンのように肺を流れ!ドラムのように鼓動する心臓!そして流れ踊る、熱い血たち!オレの体の中はエイトビートであふれている」(寺沢武一/コブラ 17巻)
脳死・植物状態の人たちも同じだ。彼らは生きている。一見沈黙している彼らの体内はエイトビートを刻み、熱く踊っているのである。
何故踊ってしまうのか。それは命の迸りであり、溢れる命の表現なのだ。
では死者の供養とされる盆踊りはどうなのか。先祖の霊と踊るというが、命の尽きた死者に熱い命の表現を見せる意味はあるのか。
一遍と踊り念仏
浄土系仏教・時宗の開祖、一遍(1239~89)は空也の踊り念仏をさらに深めていった。一遍は「無量寿経」にある法蔵菩薩の誓願を独自の解釈で読み解く。法蔵菩薩は後に阿弥陀如来となる人物とされている。その四十八の誓願のうち、最も重要とされるのが第十八願の「衆生を救うまでは仏にはならない」という誓願である。そして法蔵は阿弥陀如来となった。つまり誓願は達成したのである。
誓願が達成したということは我々は既に救われていることになり、我々は生きながら既に極楽浄土に往生している。つまり浄土と現世には境はなく、生も死も境はない。突き詰めれば、生きているそのことが浄土にいることになるのである。その表現が「南無阿弥陀仏」の六字であった。
我々は既に救われている。「一遍聖絵」には救いの喜びに恍惚となる一遍たちの様子が生き生きと描かれている。一遍たちの喜びは念仏となり、念仏はさらに身体を震わせ踊りに導く。その騒ぎに屋敷の住人も周囲の住民も集まってくる。踊りは見ている人を引き込む力を持っている。踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らな損損と云うではないか。「一遍聖絵」ではみな、恍惚とした表情を浮かべているのがわかる。トランス状態、エクスタシー、呼び方はなんでもよい。一遍たちは生死を超えた命の迸りを体感し表現したのである。
ここまでくると、盆踊りの意味もわかってくる。生も死もないのなら、生者も死者もなく、両者が「共に」踊るのが盆踊りだ。盆とは彼岸の扉が開く日である。彼岸の彼らに向けて遠い所から弔うものではない。彼らと、いま、共に、生きている在ることを喜ぶ。死者と共に生を祝うために踊るのである。
盆踊りの意味と現代の葬儀
以上を踏まえて一般的な葬儀について考えてみる。葬儀、葬式というととかく暗い。人が死んだのだから当たり前である。時宗の葬儀でも踊り念仏を行うことはまずない。そして葬儀とは自分たちの心の区切りをつけるためのもの、つまり生者のものであるとも言われる。しかし、やはり死者のためのものでもある。死者の身になって考えてみたい。参列者がただ俯いて泣いていたり、じっと座って念仏を唱えているより、歌い踊ってくれた方が楽しいに決まっている。
現代の葬儀の場において、死者はあくまで沈黙する死者である。筆者は以前、葬儀にも笑いがあって良いと述べた。生死を超え、死者と共に生きる喜びを分かち合う盆踊りの真髄が葬儀にも活かされれば「死」の持つ陰鬱な風景も変わっていくかもしれない。
参考資料
■聖戒「一遍聖絵」岩波書店(2000)
■柳宗悦「南無阿弥陀仏」岩波書店(1986)
■栗田勇「一遍上人」新潮社(2000)
■寺沢武一「コブラ 17」 集英社(1985)