去年の5月21日、8回目のエベレスト挑戦で、下山中に滑落してしまった登山家・栗城史多(くりきのぶかず、1982〜2018)が35歳の若さで亡くなった。生前、栗城は、山に登るときには必ず、「プジャ」というヒンドゥー教のお祈りの儀式をすると自らの著作の中で明かしていた。石塔をつくり、赤、青、緑、黄、白の旗に経典が書いてある「タルチョ」を四方に渡す。そこで僧侶がお祈りを捧げる。この儀式は、現地のシェルパたちにとって、とても重要なものだ。栗城はその際、「成功させてください、登らせてください」などの「お願い」をすることはなかった。
祈るとき、人はつい願いがちだが
それは、「山」というものは、「こうしてほしい」「ああしてほしい」というお願いや欲ではなく、今、生きていることや自然に生かされていることに気づいてほしいと願っているのではないかと考えていたためだった。その結果、物事がうまくいって、「山」「神」など、「◯◯を生かそう」という「大きなパワー」が、人の進むべき道を教えてくれる。また、それに気づいて感謝ができている人は、山でも下界でも強い。栗城自身もそうした「気づき」ゆえに、「いろんなことがうまくいくようになった」。
また、山頂に到達できたとき、栗城はいつも、地面に額をつけて祈りを捧げた。ただただ感謝を繰り返した。この祈りの行為を通して栗城は、「同じ青い空の下で、たとえどこにいたとしても、自分がどれだけ光り輝けるのかを試されている。自分の命を燃やして、何を成し遂げられるのかを試されている」「どんな困難があったとしても、とにかく挑戦していくことで、自分は磨かれ、光は増していく」「夢がかなったとき、闇の中で自分が最高に輝ける瞬間がくる」と考えるようになったという。
無謀と挑戦は紙一重 ヤマトタケルの挑戦
傍目には「無謀」と映った、単独・無酸素登頂によるエベレスト制覇に何度も挑戦し続けた栗城自身は、自らの死をどのように捉えたかはわからない。しかし「無理をせずに、もっと早めに諦めるべきだったのではないか」「まだ若いのだから、次の機会を狙うべきだった」といった意味における栗城の「悲劇」の死とどこか重なる、ひとりの伝説的な人物がいる。12代景行天皇(BC13〜130)の皇子であった、ヤマトタケル(倭建命、日本武尊。?〜114)だ。
伝説的英雄のヤマトタケル
ヤマトタケルは、日本(ヤマト、倭)という国の版図が飛躍的に拡大した時代を生きたとされている。『日本書紀』(720年)では九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えみし)らを討伐した勇猛果敢さが強調されているが、『古事記』(712年)では、兄・大碓命(おおうすのみこと)を殺してしまう粗暴さゆえに、父親である景行天皇から疎まれ、西の果て、東の果てをさすらう孤独な宿命を背負わされつつも、持ち前の武芸や知略、そして支援者や天佑をもって、多くの苦境を克服できたにもかかわらず、大和到着目前で斃れた皇子として描かれていることから、多くの日本人の心を捉えてきた英雄のひとりである。
ヤマトタケルの数々の伝説
そのようなヤマトタケルだが、彼の東征の道のり、大和(現・奈良県)→伊勢神宮(現・三重県)→尾張(現・愛知県)→焼津(現・静岡県)→走水海(現・浦賀水道)→足柄峠(現・静岡県と神奈川県の境)→酒折宮(現・山梨県)→熱田(現・山梨県)→伊吹山(現・岐阜県と滋賀県の境)→能煩野(現・三重県)の中で、現在の関東甲信越地域に立ち寄ったとする伝説が多く残っている。
例えば、埼玉県秩父郡長瀞町の宝登山(ほどさん)神社創建のいわれだ。東征から大和へ帰る途中のヤマトタケルが宝登山(497.1m)の山頂から、大和の畝傍山東北陵(うねびやまうしとらのみささぎ)に祀られた神武天皇の霊に向かって遥拝し、戦勝を報告した。その時、山中に猛火が起こったが、多くの山犬が現れて火を鎮めた。ヤマトタケルはこの奇瑞から、山を「火止(ほと)」と名づけ、山犬こそ、山の神の大山祇神(おおやまづみのかみ)に従う霊犬であるとして、この山を護るために、火の神の火産霊命(ほむすびのみこと)と大山祗神を鎮祭されたというものだ。こうした伝説ゆえに、宝登山山頂の奥宮の狛犬は、我々が知る「犬」ではなく、「オオカミ」が鎮座しているのだ。
無謀を克服したヤマトタケル
ここでヤマトタケルを阻もうとした「火」にまつわる伝説は、世界的に、「火」を獲得し、それを使いこなせるようになるということで、人間が文化の時代に入ったことを示すものとされている。日本の神話の中では、イザナギとイザナミの「神生み」によって火の神・カグツチが生み出され、それを契機に冶金・窯業・農業などの神々も誕生した。また、ヤマトタケル自身に絡む「火」だが、記紀の中では、ヤマトタケルが東征に向かう際、伊勢で天照大神を祀っていた叔母・倭姫命(やまとひめのみこと)が草薙剣(くさなぎのつるぎ)と御嚢(みふくろ)を与える。そして窮地に立った際、御嚢の口を解くように言った。ヤマトタケルが相模国で国造に騙され、火攻めに遭った時、草薙剣で周囲の草をなぎ払い、御嚢の中にあった火打ち石で向かい火をつけて、死地を脱し、国造を討ち取った、と記されている。相模国にせよ、宝登山にせよ、ヤマトタケルという人物は、自らの力以上の神的な力によって、災厄としての「火」を成敗することができたのである。
山の神に対する信仰と重なるヤマトタケルの伝説
そしてオオカミが人間を助けるエピソードだが、オオカミまたは山犬と区別がつかない形で、霊力がある動物として、日本全国津々浦々、殊に信州、奥秩父の三峰山(みつみねさん)、静岡県西部の山住(やまずみ)峠などで、人間を守るものとして信仰された。それに伴い、様々な言い伝えがある。今となっては、宝登山神社創建にまつわるヤマトタケルの伝説と、山の神信仰と、どちらが先に人々の間で広まっていたのか、判断がつきかねるが、いずれにしても、古くから信仰されていた山の神と、東国12カ国を平定するための旅を重ねた記紀神話の悲劇のヒーローとが自然に融合したものであると考えられる。
また、東征後、大和に戻るまでの道のりにおけるヤマトタケル伝説は、ただひたすら成功を重ねたそれまでの状況とは異なり、宝登山神社の社伝のように、火難・水難が次々と襲いかかってくる。幸い、山犬に助けられたとはいえ、こうした「ストーリー」は、ヤマトタケルの最期を象徴する「栄光」から「没落」へと向かう、その生涯の「英雄性」「ドラマ性」を際立たせるものでもあった。
ヤマトタケルの最期
苦労を重ねつつもヤマトタケルは、「幸運を使い果たした」、または「油断」「安堵感」「慢心」「旅の疲れ」ゆえに、大和への帰り道、尾張の美夜受比売(みやづひめ)の元に、自らの苦境を救ってくれた神剣・草薙剣を置いたまま、伊吹山の神を殺しに行く。その道すがら、たまたま出くわした白イノシシに対しヤマトタケルは、伊吹山の神とは気づかず、「山の神の使い程度のものだろうから、帰り道で殺せばよかろう」と独り言を言った。それに怒った伊吹山の神は、大氷雨を降らせる。それによってひどい怪我を負い、身も心も痛めつけられてしまったヤマトタケルは、力つき、能煩野で亡くなってしまう。
栗城史多とヤマトタケルの共通点
先に述べた栗城のように、2012年の登頂失敗の際に負った深刻な凍傷によって、両手の指9本の第2関節から先を失ったハンディキャップにもめげずに、エベレスト登頂の中でも最難関と言われる、南西壁への無酸素での登山は、「熟慮」「安全策を取る」ことよりも、ただひたすら挑戦を重ねずにはいられなかった、「若さゆえ」の情熱や意地。それが皮肉にも死を招いてしまったことと、ヤマトタケルの死は決して同じものではない。ただ栗城やヤマトタケルに言えることは、その人生の中で彼らが最も望まず、むしろ退けてさえいたであろう「諦め」「遁走」などの「卑怯さ」「臆病さ」も時として、「生きる」ため、または「夢」を実現するためには必要な場合もあることを、我々に教えてくれる。だが、彼らに若さの特権である無謀さや一途さ、ある意味根拠なき「自信」よりも、したたかさや老獪さがまさっていたとしたら、栗城ならばエベレスト南西壁の無酸素登山を達成でき、ヤマトタケルならば大和に無事にたどり着いて、景行天皇の次の、第13代天皇になっていたかもしれない。
どうして二人にロマンを感じるのか
しかしそうなっていたとしたら、我々は彼らに「ロマン」を感じるだろうか。皮肉なことに、彼らが夢を果たせぬまま、若い命を落としたからこそ、我々は彼らに心奪われてしまうのだ。それは我々の大半は、「生きる」ために、無謀さや時に愚かささえ伴う、「夢の実現」を諦め、無難に生きざるを得ない。「バカなことをして…」「こうすればよかったのに…」と言いながらも、心のどこかで、夢の実現のために死をも恐れず、猪突猛進に生きることができた彼らが羨ましくてたまらない。「たとえ死んでも、または生き続けて、惨めな一生になったとしても、あの時夢を諦めなければよかった…」。そう思いながら、栗城やヤマトタケルの死を悼むのだ。
筆者としては、老いてから、無難な一生を選んだことに後悔を重ね続けながら、夢あふれた未来ある若者たちや、夢を叶えた著名人に嫉妬しながら生きるよりも、ヤマトタケルや栗城のように、「自分のため」に生きて、死にたいと思う。
参考文献など
■酒井董美「狼報恩」乾克己・小池正胤・志村有弘・高橋貢・鳥越文蔵(編)1986年(175−176頁)角川書店
■小林惠子『解読「謎の四世紀」』1995年 文藝春秋
■大畑正一『神話と日本人 −愛と創造の古代史−』1997年 雄山閣出版
■都倉義孝「ヤマトタケル説話」大林太良・吉田敦彦(監修)『日本神話事典』1997年(311−314頁)大和書房
■渡辺正人「火の神」大林太良・吉田敦彦(監修)『日本神話事典』1997年(263−264頁)大和書房
■薗田稔「宝登山神社」白井永二・土岐昌訓(編)『新装普及版 神社辞典』1997年(308頁)東京堂出版
■鈴鹿千代乃「倭建命・日本武命」大島建彦・薗田稔・圭室文雄・山本節(編)『日本の神仏の辞典』2001年(1290−1292頁)大修館書店
■栗城史多『一歩を越える勇気』2009/2013年 株式会社サンマーク出版
■「021 プジャ(安全祈願)」『萩原編集長のヒマラヤ未踏峰挑戦記 Outlier East 7035m』 2013年9月30日
■産経新聞取材班(編)『日本人なら知っておきたい英雄 ヤマトタケル』2017年 産経新聞出版
■「天候は良好、ルートも原因ではない… 栗城さんは、なぜ亡くなったのか?」『AERA dot.』2018年5月24日
■「登山家・栗城史多さんを『無謀な死』に追い込んだ、取り巻きの罪」『IT media ビジネスONLINE』2018年5月25日
■「滑落死から半年 栗城史多さん『エベレスト死』の真相」『Yahoo!ニュース』2018年11月21日
■「プロフィール」『栗城史多 公式サイト』2019年1月10日
■「神社紹介」『秩父 長瀞鎮座 寳登山神社』