やってみないとわからないことって、多いですよね。あれこれ想像して、いろんなものを読んだり、人から聞いたりしていても、実際に体験してみて「ああ、そうだったか」と初めてわかることって、ときどきあります。例えば入学、就職、退職などがそうかもしれません。
新世界に入るまでは「きっとこうだろう」とイメージしていたことが、まったく現実とは合わず、自分の想像の浅さにがく然としたことって皆さん覚えがあるのではないでしょうか。振り返って考えるに、新しい世界は隅々まで想定外のことに満ちていました。こういう、体験してみて初めてわかることは、多々あると思います。
例えば、この世の中だけではなく、あの世がどうなっているのかは、今生きている我々にとっては、全く未知な領域といえるのではないでしょうか。神仏がおわすのかどうか、あの世や天国や極楽、輪廻転生などの教え、死後が実際にどうなっているのかなどは、正直わかりません。死後の話となると一般的には宗教のことで、それらは信仰の一環です。死後の世界がどうなっているかの答えが世界中で統一されるようなことも、まずなさそうです。同じ人間であっても、世界にはいくつもの違う宗教があり、異なった歴史、生活風土があり、それはそうそう変わらないでしょう。
臨死体験は世界共通のようです
先日、テレビで臨死体験を取り上げた番組を見ました。
臨死体験というのは、異なる文化圏でもいくつかの共通点があるようです。
(1)体外離脱体験
(2)トンネル体験
(3)光との邂逅
(4)大きな存在あるいは故人との対話など
番組では、臨死体験は科学的に説明できるという主張が紹介されていました――心停止で血流が止まると、脳内物質放出や脳波の乱れがおこり、しばらくは脳内が非常に活性化しているので、脳が見せる幻覚ではないか――という解釈です。もちろん、それが答えだと結論づけるわけではありませんが、そう解説されればなんとなく納得はできます。そもそも脳じたいが未だにかなりミステリアスなものです。しかも、脳が見せる幻覚ともなれば、かなり強い、刺激に満ちたものだと思われます。
臨死体験によって死生観がかわることもあります
しかしながら、宗教的観点からしたら、科学も信仰の一種かもしれません。この世界にはわからないことが山ほどあります。そもそも論を展開すれば、なぜ我々が生きているのか、宇宙の始まりは何だったのか、命はどこからきたのかというところから始まってしまうのではないでしょうか。死ぬときどうなるのか?体験してみないと実際はわからないことっていろいろあります。テレビ番組の中でプレゼンテーターの方も言っていましたが、臨死体験を考えると、死ぬのは怖くはなく、むしろ楽しみでもあると思うことができそうです。人生を全うしたあとに待っている最大のミッションがあの世への旅立ちというプログラムなのかもしれません。
そして、お葬式は、そういうふうにして実際に旅立たれた方との別れの儀式。取り残されて、なお生きていかねばならぬ現世の人々が、旅立たれた方との別離をしっかりと記憶に刻むための一連の儀式であるのでしょう。だから、別れのしきたりが重視される一方で、今流行の家族葬の様に、それぞれの方に似合ったバリエーションがあっていいのでしょう。そういう点では、まさに人生そのものといってよいセレモニーだと思います。