霊仙(れいせん)は日本の平安時代前期の法相宗の層であり、日本で唯一の三蔵法師です。実際の生まれは不明ですが、近江国(現・滋賀県)や阿波国(現・徳島県)出身とも伝えられています。ちなみに「西遊記」のドラマで知られている「三蔵法師」ですが、実は人の名前ではありません。西遊記の三蔵法師のモデルとなったのは「玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)という人物で、数ある三蔵法師の一人です。
三蔵法師とは?
三蔵法師の三蔵とは「経蔵(きょうぞう)」「律蔵(りつぞう)」「論増(ろんぞう)」の三つの像のことを言います。
「経蔵」とはお釈迦様が説かれた「お経」
「律蔵」とはお釈迦様が決めた「戒律」
「論蔵」とはお経の内容を後世になってからインドの仏教の先生が解説されたもの
この三つの蔵を「三蔵」といい、三蔵法師はこの三蔵に精通した僧侶のことを言います。
日本でただ一人の三蔵法師「霊仙」
霊仙は六歳から十五歳頃まで霊仙寺で修業をし、十五歳の頃、奈良興福寺へ入山。法相宗の教義を修行し、合わせて漢語を習得したとされています。
霊仙は修行中、大日如来が現れ、その教えを学ぶためには唐に渡らねばならないと決意。しかしそのチャンスが訪れたのは霊仙が四十五歳の頃でした。
霊仙が乗った遣唐船には、最澄と空海という仏教史上もっとも有名となる二人が同船していました。共に入唐しましたが、最澄はわずか八か月。空海は三年で帰国。霊仙は憲宗皇帝の信厚く帰国を許されず、その後二十三年という長きに渡り在唐。帰国はついに叶うことはありませんでした。
無名だった霊仙に与えられた三蔵法師
有名な最澄と空海の二人に比べ無名の霊仙がいかに優秀な人であったのは、憲宗皇帝が層の最高称号である「三蔵」を授与したことでわかります。霊仙は「霊仙三蔵」になり、日本でただ一人の三蔵法師です。
霊仙は空海と共に教典研究を行っていました。空海はその後恵果のもとへと去りますが、霊仙はそのまま研究を続けていました。その後皇帝に命じられ般若三蔵を中心とする八人の高僧に選ばれ、皇室に保管されていた経典「大乗本生心地観経」の漢訳を行うことになりました。
般若がサンスクリット語で音読し、霊仙が漢語に訳していく作業です。般若と霊仙の努力により、無事に完訳。その功績により般若と共に「三蔵」の称号を贈られました。更に、皇室の仏事を務める内共奉十禅師(ないぐぶじゅうぜん)の一人として国家鎮護という重要な役割を果たすことになりました。
霊仙三蔵の生涯
数々の功績を残していった霊仙三蔵。しかし彼の心は望郷の念が取れる事は無く、自分が学んだものを日本に伝えるべく憲宗皇帝に帰国を度々願い出ますが、その学識、知恵の全てが国外に出ることを恐れた皇帝はその帰国を許しませんでした。
しかし唐朝の勢力が衰えてきた八百二十年に憲宗皇帝が暗殺され、その結果反仏教派の力が強くなっていきました。霊仙三蔵はいつしか追われる身となり身をひそめるように、海に近い山海省、五台山に住むようになりました。そしてこの地で日本との交易を行い、日本の匂いを感じながら自分の持っている全てを日本に伝えるべく、様々な努力を始めました。
霊仙三蔵は嵯峨天皇とのやり取りで、かつて般若のもとで共に学び帰国した空海のその後の活躍を知りました。自分がもし帰国が叶わぬのなら自分が持っているものを日本に伝えるべく、法具と教えを弟子に託しました。その予感は不幸にも当たり、八百二十七年、何者かの手により霊泉は毒殺され、享年67才の生涯を閉じました。
霊仙の遺言
その後、空海の弟子である僧常暁が不思議な因縁により霊仙が弟子に託した「教え」と「法具」を持ち帰ることになりました。霊仙は弟子に「日本から層が来たら渡せ」という遺言を残していたのです。
常暁は承和六年(839)に帰国し、霊仙三蔵の遺言どおり、秘宝を宮中に伝えました。それ以来宮中では国難にあった時、鎮護国家の秘宝として「大元師法」が行われ、それは昭和二十年、太平洋戦争末期まで続きました。
日本に「神風」を起こし数々の争いを沈め日本を救ってきた「大元師法」を日本に伝えたのは、空海、最澄と共に唐に渡り、日本人ただ一人の三蔵法師になった霊仙三蔵なのです。