「昭和の子ども」なら誰でも知っている話がある。児童文学作家・斎藤隆介(1917〜1985)の『花咲き山』(1969年)だ。
『花咲き山』のあらすじ
少女あやが山菜採りで山に登った。道に迷ったあやは、山の中でひとりの山ンばと出会う。あやの目の前には、今まで見たことがなかった美しい花々が咲き乱れている。山ン場が言うには、一面の花はすべて、辛いのを辛抱して、自分がやりたいことをやらないで、涙をいっぱいためて辛抱すると、その優しさと健気さが、花になって咲く。あやの足元に咲いている花は、あやが妹のそよのために、お祭りの赤い着物を我慢し、そよに譲ってやったことで、咲いたものだと。
山から戻ったあやは、この話をみんなに話した。しかし誰も信じない。あやはまた、山に行ってみたが、山ンばも花々も見つからなかった。だが、あやはその後時どき、「あっ!いま花咲き山で、おらの花が咲いてるな」って思うことがあった…。
佐賀県東松浦郡肥前町高串の増田神社に祀られている増田敬太郎
明治時代に、まさに「花さき山」を彩る一輪の可憐な花のような人物がいた。佐賀県東松浦郡肥前町高串(ひぜんちょうたかくし)にある「増田神社」に祀られた増田敬太郎(1869〜1895)だ。
1895(明治28)年7月21日、佐賀県の唐津警察署に配属されたばかりの増田だったが、赴任先の入野村(いりのそん)高串地区では、死に至る恐ろしい伝染病・コレラが大流行していた。増田は患者が出た家の消毒や交通遮断、予防法の指導はもちろんのこと、コレラ感染を恐れた住民の代わりに、死者が出た際は、土地に火葬の風がなかったため、村から2キロほど離れた墓地まで遺体を運び、埋葬するほどの献身ぶりだった。三昼夜、不眠不休で働いていた増田だったが、23日の午後にはコレラにかかってしまい、翌日の午後3時に亡くなってしまった。25歳の若さだった。臨終の際に増田は、「私は死んでも、この高串に今後悪疫は入れない」と言い残していたという。
増田敬太郎の生い立ち
たった25年だったとはいえ、増田は冒険心に富んだ、ある意味波乱万丈な生涯を送った人物だった。熊本県合志郡泗水村(こうしぐんしすいむら、現・菊池市)の富裕な家の長男として生まれた増田は、私塾で漢学や数学、測量術を学んだ後、19歳の時に東京へ遊学し、法律・鉱山学・英語・速記術などの知識を深めた。その後、20歳になった増田は熊本に戻る。阿蘇郡馬見原(まみはら、現・山都町、やまとちょう)の用水路開削(かいさく)工事の技術員として働いた後、合志郡野々島村(現・合志市、こうしし)役場の書記となった。
それから程なくして増田は、数十人の村人を引率し、北海道開拓団団長として、岩見沢を目指した。しかし北海道は想像以上の極寒の地であったことや、荒れた土地の開墾に苦慮したばかりでなく、自身が病に倒れてしまったため、仲間を残し、増田はふるさとに戻ることを決意した。
病が癒えて後、増田は、養蚕業に挑戦する。当時の泗水村では養蚕業は廃れていたが、増田の努力によって見事に復興を遂げた。その成功を元手に、今度は長崎で絹糸の輸出業を始めた。そんな中、増田は「金もうけ」よりも、社会的に弱い立場の人々、貧しい人々にはお金を貸したり、子供たちに筆や墨などを贈ったりするなどの援助を惜しまなかった。しかも道楽者でもあった増田は、村に芝居の劇団を招聘したり、自ら人形芝居の稽古を行ったりもしていた。そうしたことから、今度は増田が経済的に困窮してしまうほどだった。
そこで家督を弟に譲り、25歳の夏に、佐賀県の巡査採用試験を受験する。合格した増田は、今で言う警察学校に当たる巡査教習所に入所する。本来3ヶ月ほどかかる教育課程をわずか10日で修了した増田は、7月17日に巡査に任命され、その2日後に、唐津に配属されることになった。
ちょうど高串村では、コレラが大流行していた。村の巡査が県警本部に救援を求めてきた。学業の優秀さ、そして冒険心に富んだそれまでの人生を勘案され、増田は高串村を救うように命じられた。増田は任務を引き受け、交通機関が何もなかった当時、山道を伝い歩いた2日後、高串村に到着した。その後増田は、たった3日の勤務の後、殉職したのである。
増田の死とともにコレラは収束した
不思議なことに村を恐怖に陥れたコレラは、増田の死と呼応するように収束した。それは幸運な偶然だった。当時の人々はまだ、幕末期に日本に上陸し、爆発的に蔓延したコレラ「対策」同様、村の入り口で鐘や太鼓を叩いて疫病除けの祈禱をするばかりだったのだが、増田が施した患者の家の周囲の消毒のみならず、人々の行き来、生水を飲むことや生の魚介類を食べることの禁止などが功を奏したためだろう。しかし村人たちは、増田が村中のコレラの災厄を背負ってあの世に去ったと受け止めていた。
そのため、増田の遺骸は、佐賀県唐津市と長崎県の離島・鷹島(たかしま)の間にある日比(ひび)水道に浮かぶ小島に運ばれて荼毘に付され、遺骨は熊本の弟に手渡されたのだが、村人はその一部を高串地域の中央に位置する「秋葉神社」の境内の一角に埋葬し、灯籠型の墓碑を建てた。
村人は増田に感謝し続け、増田神社が誕生した
それからずっと、増田の死は村人に忘れ去られることはなかった。村の内外には、増田の多くの「霊験譚」が広がっていった。そのため、死後1年後の明治29(1896)年、墓碑に2間×2間半(約3.63m×4.53m)の小さな瓦ぶきの拝殿が建てられた。「増田神社」の最初の誕生である。
そのことから、もともと秋葉神社の祭礼として行われていた、春分・秋分の日を「大祭日」とし、漁を休んで「お籠り」をすることが、いつしか増田神社のお祭りとなって、唐津や伊万里(いまり)ばかりではなく、長崎や福岡からも多くの人が訪れ、参拝するようになっていった。そして増田の没後10年に当たる明治38(1905)年には、社殿が10坪ほど増築され、日露戦争の凱旋記念として2本の鳥居が建てられ、「増田神社」の扁額が掲げられた。大正2(1913)年には更に増築され、玉垣や狛犬も造られ、「神社」としての体裁が整えられた。
増田の殉職と村人の増田への思いが警察を動かした
更に大正12、3(1923、24)年頃、唐津署に勤務していた横尾左六警部補が偶然、増田神社の祭礼に参加した際、その祭礼の盛大さに衝撃を受けた。殉職したとはいえ、たった3日間の巡査だったにもかかわらず、没後何年もたっても、村人たちが大切に増田を祀っていたからだ。
感動した横尾警部補は、佐賀県警の関係者にそれを伝えると、県警本部は増田の業績を、警察官の精神鼓舞のための資料にしようと考え、『嗚呼警神増田巡査−増田神社の由来』と銘打った小冊子を作成し、佐賀県下の警察官に配布した。それまでの増田の死の「取り扱い」は、殉職者の慣例通り警察葬が執り行われ、彼の故郷の泗水村に石碑が建てられたりしてはいたものの、それ以後は「忘れられた」存在だった。しかし横尾警部補の増田神社来訪を契機に、多彩な形で「官」「民」による、増田の顕彰活動が行われるようになっていった。
昭和10(1935)年には、第三の鳥居が奉納され、扁額には「巡査大明神」としたためられた。そしてその2年後には、秋葉神社と合祀され、新生「増田神社」が誕生することとなった。
増田敬太郎を取り扱った劇や浪曲、紙芝居、絵葉書などが登場した
その間、増田の偉業が新聞や雑誌に取り上げられていたのはもちろんのこと、警察関係者がシナリオを書いた「増田巡査劇」が佐賀県内で巡回公演されるばかりではなく、浪曲や紙芝居、絵葉書などのモチーフになって宣伝され続けた。
その結果、増田神社は、流行病(はやりやまい)に霊験あらたかという、市井の素朴な「守り神」的な存在から、命がけで職務を全うした「警察官の鏡」、更には「日本精神の権化」として、日本全国の警察関係者の崇敬すら集めていくようになった。
自らの命を捧げて人に尽くした存在の代表格となった増田敬太郎
殊に増田が日本唯一の「警神」として「巡査大明神」に祭り上げられたことは、国威掲揚のために、陸軍大将の乃木希典(1849〜1912)を祀った乃木神社(1923年創建、東京都港区赤坂)や、軍神第一号とされた広瀬武夫中佐(1868〜1904)の広瀬神社(1935年創建、大分県竹田市)、元帥海軍大将の東郷平八郎(1848〜1934)の東郷神社(1940年創建、東京都渋谷区神宮前)などに見る、「国のために自らを捧げた」軍人たちの「宗教モニュメント」化が積極的に行われた、当時の情勢と大きな関わりがあったと考えられる。
現在の増田神社は、第2次世界大戦勃発前から戦時中まで、大いに盛り上がった「国威掲揚」「国民の手本」などの熱狂はなくなり、平穏を取り戻している。しかし増田の偉業は決して忘れ去られることなく、毎年、命日の7月23日前後には、佐賀県警主催による慰霊祭、そして地域の人々による増田神社での例大祭が行われている。
承認欲求全盛のこの時代に…
今に始まったことではないが、SNSなどにおいて、自分自身のプライベートライフ・所有物・豊富な知識・人脈…などの「素晴らしさ」を他人に認められることを、何よりもまず優先する人々が、より顕著になってきた今日だからこそ、誰も知らない山の中で、よいことをすると花開くという『花咲き山』の話や、たった3日間の職務だったとはいえ、全身全霊で村人のために尽くした増田の一生を忘れてはならないのではないか。
もちろん増田だけではなく、明治〜大正〜昭和〜平成と時代は移り変わっても、誰も知らない「花さき山」に花を咲かせるような善行を行った人々はあまたいた。新しい時代に変わっても、人の幸せのために、一心不乱に身を挺する「令和の増田敬太郎」が生まれることを、筆者は大いに期待している。
参考資料
■石橋千城「増田神社」佐賀新聞社(編)『佐賀県大百科事典』1983年(756頁)佐賀新聞社
■田中丸勝彦「増田神社の由来記」佐賀民話の会(編)『佐賀の民話』第5号 1994年(65−66頁) 佐賀民話の会(刊)
■田中丸勝彦・重信幸彦「ある『殉職』の近代」『北九州大学文学部紀要』第57号 1998年(1−61頁)北九州大学文学部
■西村明「彼の死 −増田巡査の神格化−」『東京大学宗教学年報』第17号 2000年(145−159頁)東京大学人文社会系研究科宗教学研究室
■小松和彦『神になった人びと』2001年 淡交社
■田中丸勝彦「増田神社」大島建彦・薗田稔・圭室文雄・山本節(編)『日本の神仏の辞典』2001年(1176頁) 大修館書店(刊)
■富岡行昌・岩永融(監修)『目で見る 唐津・伊万里・松浦の100年』2001年 郷土出版社
■肥前町高串区(編)『増田敬太郎物語』2004年 肥前町高串区(刊)
■斎藤隆介『斎藤隆介童話集』2006年 角川春樹事務所
■藤田のぼる「斎藤隆介の人と作品について」斎藤隆介『斎藤隆介童話集』2006年(212−217頁)角川春樹事務所
■大島建彦『疫病と福神』2008年 三弥井書店
■西川吉光「日本の戦略文化と戦争」『国際地域学研究』2010年(1−15頁)東洋大学国際学部
■野村亮太・丸野俊一「個人の認識論から批判的思考を問い直す」日本認知科学会(編)『認知科学』Vol. 19 No.1 2012年(9−21頁)共立出版
■西村明「殉職警官の慰霊と顕彰 『巡査大明神』増田敬太郎の場合」村上興匡・西村明『叢書
■文化学の越境 21 慰霊の系譜 死者を記憶する共同体』2013年(95−125頁)森話社
■「増田神社例大祭」『佐賀県警察本部』
■「増田慰霊祭及び増田例大祭へ参加しました」『佐賀県警察本部』
■「第21回 絶景の温泉と、警神を祭る増田神社」『自衛隊佐賀地方協力本部』
■「増田神社夏祭り」『旅Karatsu 唐津観光協会』