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表裏一体の願いと呪い。そしてそれらを超越した祈り。

筆者は以前、神様は自動販売機ではないとし、祈りは純粋であるべきであり、その数少ない場が死者を「弔う」斎場だと述べたことがある。同時に民衆の切なる願いを理解できるとも指摘した。筆者は「祈り」の本来の意味を問うたのであって、「願い」を否定したのではない。より高い存在に具体的なお願いをするのは人として当然の感情である。そして、その上で忘れてはならないのは、願うという行為は「呪い」の裏返しでもあるというである。


受験祈願とは自分以外の不合格を願うこと

受験シーズンも終わったが、神社を詣でるとたくさんの絵馬が奉納されており、中には早々と来年の合格祈願も見受けられる。試験に合格する定員は決まっているわけだから、合格祈願とはつまるところ、誰かに落ちてくれとの願いであり、自分以外の受験生にかけた呪いということにもなる。


勝利を願うことは、相手の敗北を願うことであり、それは呪いに近い

2003年9月15日 甲子園球場にて、阪神タイガースの選手とファンたちは横浜vsヤクルト戦の模様を注視していた。ヤクルトが敗れれば自動的に阪神が優勝することになっていたのである。球場では選手もファンも共に試合の趨勢に食い入っていた。言葉には出さないが、その場の人たちは皆、ヤクルトの敗北を待ち望んでいた。それは阪神優勝の願いであると同時に、ヤクルト敗北への呪いであった。ヤクルトとて簡単に負けるわけにはいかない。しかし奮戦空しくヤクルトは敗れ、阪神の18年ぶりのセリーグ優勝が決定した。

優勝を願い、対象のチームの敗北を願う。それ自体は間違っていない。勝負は非情である。伝説の空手家・大山倍達(1923~94)は「道場で相対するなら親でも殺せ」と言っている。しかしこの場合、阪神はヤクルトを試合で直接下して優勝するわけではなく、その敗北を「願っている」のみだった。まさに呪いの儀式であったといえる。


呪いの代名詞「藁人形」 呪いが込められた「絵馬」

日本人にとって最も有名な呪いが呪いの藁人形だろう。午前2時に五徳に蝋燭を立て憎い相手を藁人形見立てて釘を打つ「丑の刻参り」はよく知られている。現代でも一部の神社の木には禁止されているにも関わらず、藁人形が打ち付けてあることがあり、時折マスメディアのオカルト特集などで報道される。

絵馬にも呪いの文言が綴られているものを見たことがあり、人の情念の深さを思いしったことであった。絵馬に呪いを込め、藁人形に釘を打つ。楽しくてやるわけではない。裏切られ、虐げられた者の怒りが悲しみが慟哭の思いが人の心を鬼に変えるのだ。もちろん中には身勝手極まりない逆怨みもあるだろうが、それもまた好きでやっているわけでもない。


般若の涙

能面に「般若」の面がある。般若の表情は恐るべき鬼の面だ。怒り、恨み、あらゆる負の想いの現れである。しかしの面の下には嘆き、哀しみが隠されている。般若の下に潜む人々の涙を不純だと切って捨てることはできない。

興福寺の阿修羅像の三面は怒り、寂しさ、悲しみであるともいう。呪いも願いも人間の弱く悲しい心の現れなのだ。


庶民の願い

ニュース番組で本庶佑氏のノーベル医学・生理学賞受賞を扱った際、アナウンサーが「基礎的な分野と違って私たちの生活に役に立つ研究」と述べていた。当の本庶氏は基礎科学の重要性を理解してもらいたい旨を強調していたが、多くの人間にとっての大事は、宇宙の真理や世界平和より明日のごはんであるだろう。

中国の道教には様々な神々がいるが最も人気が高いのは現世利益を司る玉皇上帝である。本来の道教の最高神は万物の根源であるとされる元始天尊であったが、民衆からはさほどの人気はなく、敬して遠ざけられている。日本でも人気のある神様は御利益のはっきりしている稲荷系や八幡系である。古事記の創造神・天之御中主、高御産巣日神などは知名度からして低く、鎮座する神社も少ない。

庶民は、奥深くはあるが抽象的で難解な最高神・創造神より、家内安全や縁結びなど生活に即した現実的な願いを請け負ってくださる神様を求めるのである。


手を合わせるということ

かくも人間は弱いものだ。望み、願い、呪う。その一方で、そうしたものと対照的なのが、「祈り」である。人種、民族を問わず、手を合わせるという行為は共通だという。人知の及ばない自然の怒りを前に、あるいは豊穣な実りに対して。また、偉大な宗教者が身を持って示した広大な愛を前に・・・人は無為に手を合わせるという。これらはすべて我欲を超えた純粋な「祈り」である。日常において、そのような境地に至ることは中々あるものではないが。


最後に・・・

受験生や阪神の選手・ファンにとっては切なる願いを「呪い」と指摘するのは、酷というものかもしれない。幸せになりたい願いは万人のものだ。しかし願いのほとんどは、その一方でどこかの誰かが何かを失っているものである。

イエスや仏陀のような聖人が無償の愛を説いたり、我欲への執着からの解放を説いたのは、願いは呪いの裏返しであり、誰かが不幸になる事実を指摘したのだ。我々は聖人にはなれないけれど、1日1分でも純粋に手を合わせることも必要かもしれない。


ライター 渡邉 昇
藁人形

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