肉体の「死」と同じように、人間の才能にも「死」は訪れるのだろうか。そしてその才能は、一度死ねばもう二度と生き返る事はないのだろうか。スイスのボア・ドゥ・ヴォー墓地で眠っている偉大なファッションデザイナー、ココ・シャネルの生き方を通して、クリエイターとしての死とは何なのか、そしてクリエイターとしての死からの再生について考えてみたいと思う。
クリエイターとしての死とは
ファッションデザイナー、建築家、画家やミュージシャンなど、クリエイティブな仕事に携わる者には、必ず、人間としての死の前に、クリエイターとしての死が訪れる。クリエイターとしての死とは、創造力が無くなる事、いわゆる「才能の枯渇」である。
いつの間にか創造をしなくなる。時間をかけてゆっくりと死に至る。
昨年、あるブログで、そのクリエイターとしての死を「デザイナーとしての『ゆるやかな死』」と表現し、日本のデザイナーの間で注目を集めた。クリエイターは、若い頃はアイデアが湯水のように溢れ出て来る。それが当たり前で何の疑問も抱かない。そして、スキルがあるレベルに達すると、クリエイターは決まったひな形をアレンジするだけで、それなりのクオリティの作品が作れるようになる。そしてクリエイターはふと気づく。「自分は何も創造していない」と。クリエイターは、いつの間にか「職人」になってしまったのだ。これが、クリエイターとしての死であるが、この死は、ゆっくりと長い時間をかけて訪れるため、クリエイターは末期になるまで自覚症状がない。そして、その症状に気付いた時、視点を変え、新たな刺激を感じ、再び作品を生み出せるかどうかが、クリエイターとしての生死の分かれ道だろう。
真のクリエイター ココ・シャネル
フランスのファッションデザイナー、ココ・シャネルの人生は、クリエーターとして死なない生き方を体現している。シャネルの名を一躍有名にしたのは、1916年に発表した伸縮性のあるジャージー素材のドレスだった。シャネルは、当時の女性達をウェストをきつく締め付けるコルセットから解放したのだ。その後も、喪服以外ではダブーだった「黒」のワンピースや、つま先が汚れても目立たないバイカラーのパンプス、イミテーションジュエリーなど、次々と女性を活動的にするための作品を打ち出し、革命をもたらした。しかし、第二次世界大戦中にドイツの将校と交際していた事により、戦後スパイ容疑をかけられスイスへ亡命。シャネルはファッション業界から姿を消すが、それから10年後の1953年、シャネルは70歳でファッション界に舞い戻った。
「気難しい老女」とけむたがられてもなおシャネルが第一線に復帰した理由は、1950年代に入り男性デザイナー達による女性のウェストを細く締めたファッションが復活した事に刺激を受け、この時代の逆流に戦いを挑んだからだ。「シャネルの服は古臭い」と批判されながらも、自分のスタイルを貫き通したシャネルが発表した「シャネルスーツ」は欧州を飛び出しアメリカで大ヒット。世界中にその名を轟かせる偉大なブランドとなった。1971年1月、シャネルは長年暮らしていたホテル・リッツの部屋で息を引き取った。死の前日までパリコレクションの準備に没頭していたシャネル。真のクリエイターとして天晴れな幕切れだった。
シャネルの見た夢
クリエイターとしての死を避けるには、常に刺激を受け、その刺激を作品に変え、自分を表現したいという強い願望が不可欠だ。それは、簡単に言えば夢を持つと言う事だろう。シャネルは生前、こんな言葉を残している。
「どう生きたかということは、大した問題ではないのです。大切なのは、どんな人生を夢見たかということ。なぜなら、夢はその人が死んだ後も生き続けるのだから」
彼女の描いた夢は、次世代のクリエイターを刺激し、受け継がれ、生き続けて行く。