人はいつか必ず死ぬというのに、何故、あえて自ら死ぬことを決意する人がいるのだろうか。
厚生労働省の「平成29年中における自殺の概要」によると、日本国内の自殺者の総数は21321人。性別は男性が14826人で、全体の69.5%を占めた。年齢は「40歳代」が一番多く、3668人で全体の17.2%。次いで「50歳代」が3339人で15.7%。「70歳代」が2926人で13.7%となっている。遺書など、自殺を裏づけるものに記された3つまでの原因・動機の中では、「健康問題」が10778人、「経済・生活問題」が3464人、「家庭問題」が3179人、「勤務問題」が1991人となっていた。
自らの命を絶つ、そのきっかけや決定打とは
果たしてこれらが、自殺者がそれを決めた理由の「決定打」なのだろうか。いろいろな「きっかけ」があったとしても、最終的には、自分が思ったように「生きられない」ことに絶望し、その果てに、自らの命をかけて「生きたい!」と主張するための行動とも言えないだろうか。
神奈川県横浜市中区日本大通りにある横浜開港資料館に保管されている、『咸臨丸難航図』という絵がある。その絵を描いたのは、鈴藤勇次郎(1826〜1868)。幕末の混乱期の中、42歳の若さで、自ら命を絶った男だ。
鈴藤勇次郎の半生
勇次郎は前橋藩(現・群馬県前橋市)や川越藩(現・埼玉県川越市)の刀工・玉鱗子英一(ぎょくりんし・てるかず)こと、鈴木英一、そして高崎藩(現・群馬県高崎市)の儒官・江積積善(えつみ・せきぜん)の娘・みゑの次男として、のどかな農村地帯だった上野國那波郡川井村(現・群馬県佐波郡玉村町)に生まれた。勇次郎が後に姓を「鈴藤」と改めたのは、父親の旧姓「鈴木」と、英一が継いだ川越藩士の「藤枝」家、各々の頭文字を取ったものである。
神童と呼ばれた勇次郎は、後に名工として知られることになる兄・藤枝太郎英義、そして弟の英興のように家業を継ぐことなく、異なる道を歩んだ。当初は前橋藩の参政・多賀谷左近配下の砲隊に属していたが、当時洋式砲術の大家として知られた、伊豆・韮山代官の江川太郎左衛門に入門し、本格的に学ぶこととなった。文武両道に優れていた勇次郎は安政2(1855)年6月、江川に推挙され、普請役鉄砲方付手代となり、江戸幕府に仕えることになる。さらにそこの頃の日本は、度重なる外国軍艦の来航に直面し、海軍創設が急務となっていたことから、勇次郎は長崎に開設された海軍伝習所の第1期生として、最新の航海・測量・砲術など、海軍軍人としての全てを学ぶ好機を得た。しかも当時の勇次郎は「江川太郎左衛門組付鉄砲方手代」の立場のみならず、語学にも堪能であったため、「蘭書翻訳方」としての役目も果たしていたのだ。
それから2年後、幕府は江戸・築地に軍艦操練所を設けた。そのことから、長崎海軍伝習所の第1期生の大半は、江戸に戻ることになった。そこで勇次郎は教授方として、若者たちの教育に当たっていた。
そんな中、安政5(1858)年6月に調印された日米修交条約批准のため、2年後の1月、外国奉行・新見豊前守正興を正使とした使節団が、アメリカに派遣されることとなった。その際、船の長さ49メートル、幅6メートル、3本マストで100馬力のオランダ製の船・咸臨丸(かんりんまる)は、使節一行が乗るアメリカ軍艦ポーハタン号の随伴船となった。その提督には、軍艦奉行・木村摂津守喜毅が、そして長崎海軍伝習所第1期生100余名の中から、勝麟太郎(勝海舟)と勇次郎を含む5人が選ばれ、品川港から船出した。
勇次郎は運用方兼砲術方として咸臨丸に乗り込んでいたのだが、行きの37日間のうち、晴天だったのはわずか5〜6日だった。ほとんどが悪天候続きで、ひどい時は1週間も暴風雨に見舞われた。後に勇次郎が提督・木村摂津守に贈った『咸臨丸難航図』そのままの、波に船が飲まれそうになり、船室は水びたし。帆は吹き破れ、半ば海に沈みかかっている状況だった。とはいえ無事に、船はサンフランシスコの港に到着できた。96名の日本人乗組員の大半は、疲労と船酔いで食もほとんど喉を通らず、同乗していたジョン・M・ブルック大尉を筆頭とする、熟練したアメリカ人水兵たち11名の助けがなかったら、乗組員もろとも、海の藻屑と消えていたはずだったと言われている。
現地滞在の53日間、そして帰りの45日間の詳細を、勇次郎は『航亜日記』に残している。しかも画才があった勇次郎は、勤務の傍ら、自由になるわずかな時間を縫って、合計84点にも及ぶ、毛筆によるスケッチを描いていた。咸臨丸には専門の「絵師」が同乗していなかったため、咸臨丸の構造、洋上での状況、当時のサンフランシスコやメア・アイランド、ハワイの様子などを今日我々が知りうる、貴重な資料となっている。生真面目な性分だった勇次郎は自分の記録に関し、思うように絵を描く時間がなかったこと、そして十人十色のものの見方があるので、できるだけ物事を脚色せず、ありのままに伝えようと最大の努力を払った、と書き記している。
鈴藤勇次郎の自害と彼の人格を物語るエピソード
咸臨丸帰国前の安政7(1860)年3月、日本では桜田門外の変こと、大老・井伊直弼暗殺事件が起こった。そのため、国内情勢は鎖国攘夷へと逆流してしまう。それゆえ、苦難を乗り越え、日本に戻った咸臨丸乗組員がもたらしたアメリカの最新の文物はもちろんのこと、航海の成功すら、十分に評価されずに終わってしまっていた。
とはいえ帰国後の文久2(1862)年12月、勇次郎は与力格に。そして慶応元(1865)年、小十人格と「出世街道」を歩み、軍艦頭取を命じられる。更に勇次郎は、将軍・徳川慶喜に随行して京都に赴任していたのだが、慶応3(1867)年3月、病にかかり、江戸へ戻ることになる。そこで9月には、築地に海軍病院建設を命じられ、建築主任としてその指揮を取った。翌年、明治元(1868)年の1月には、軍艦役となった。咸臨丸に同乗していたブルック大尉は、勇次郎のことを「小柄で細い、あまり精力的でない」と評していたのだが、江戸幕府瓦解が進む中、病が癒えない勇次郎は妻と2男1女の子どもたちと共に、故郷の前橋に戻ることになった。年老いた母を見舞った後、勇次郎は妻子を兄・英義に託し、8月24日に自害した。
勇次郎が病に伏していた頃、海軍副総裁であった榎本武揚(1836〜1908)は、明治新政府に降伏することを拒否した。そして8月19日に咸臨丸を含んだ幕府の艦隊7隻を率い、品川沖から脱走して、「榎本政権」樹立を目指し、箱館(現・北海道函館市)に向かった。榎本と行動を共にした旧幕臣は、2000人以上に及んだという。榎本の動きを知った勇次郎は、長年苦楽を共にしてきた幕府海軍の仲間たちと一緒に行動できない自らの無力を恥じ嘆き、自ら死ぬことを決意したという。
かつて少年時代の勇次郎が父親に伴い、川越藩に移り住んだ頃、槍術を習っていた。身分が低かった勇次郎は、周囲の人々と一緒に寒稽古に加わることができなかったが、勇次郎の素質を見込んだ師匠の計らいで、特別に参加できるようになった。それを妬んだある者が、友と談笑していた勇次郎の膝に、真っ赤に燃えさかっている炭を載せた。たちまち黒煙が上がり、肉がただれ始めたが、勇次郎は平然としている。それにびっくりした友が慌てて、炭を払い落とした。それからしばらくして、その男が勇次郎に、沸騰したやかんに水を足してくるよう命じた。すると勇次郎は、うっかりしたふりをして、沸騰したやかんの湯をその男の足にこぼし、大やけどを負わせた。「粗相をした」と男に謝った勇次郎だったが、「火ほど熱くはあるまい」とつぶやいたと言われている。勇次郎は負けん気が強く、「やられたら、やり返す」執念と実行力を有した人物だったことを物語るエピソードだが、そのような勇次郎にとって、自分が無力なままでいることは、どうしようもなく悔しかったことだろう。
死にたい時 生きたい時
榎本に率いられ、北海道に向かっていた咸臨丸だが、独力で航行することができないほど老朽化していたため、回天丸に曳航されていた。そんな中、8月21日深夜に発生した台風に煽られ、咸臨丸は回天丸から曳綱を断たれた。そして乗組員もろとも、風浪に任せる他ない状況となった。幸いなことに、8月29日、咸臨丸は下田港にたどり着くことができた。そこで清水港へと出港し、損傷した船体の修理を行うことになった。しかし咸臨丸の動向は、下田から官軍側に知らされていた。徳島藩(現・徳島県、兵庫県淡路島)と柳川藩(現・福岡県柳川市)の藩兵が乗船した3隻の軍艦が、咸臨丸を求めて出航した。そしてそれらは9月18日、清水港に突入し、咸臨丸を攻撃した。この時咸臨丸には、艦長が乗船しておらず、兵も少なかった。しかも修理のために、備えられていた鉄砲は陸上に移されていた。ほとんど丸裸状態の咸臨丸の乗組員は全員、艦上で命を落とすこととなる。
もしも勇次郎が健康であったとしたら、当然、榎本に従って、箱館に向かう咸臨丸を指揮していたことだろう。そして清水港での攻撃に追い詰められてしまい、死ぬしかないこととなったとしても、その運命を潔く受け入れたはずである。
勇次郎のような、幕末最後の「侍」でなくとも、人は自分が「生きたい!」と思うように生きられないとき、死にたいと思うのか。そして自分が「生きたい!」と思う生き方であれば、死をも厭わないのか。
2018年9月、46歳の男性が九州大学箱崎キャンパスで焼身自殺をした
2018(平成30)年9月7日、福岡県福岡市東区箱崎の九州大学箱崎キャンパスで、元院生の46歳の男性が焼身自殺した。男性は15歳で自衛官となった後に退官し、九州大学法学部に進学した、ある意味「異例」の人生を歩んだ男性は、1998(平成10)年、学問を更に極めるべく、大学院に進んだ。憲法学を専攻し、ドイツ語が堪能であったというその男性は、修士課程修了後、博士課程に進む。しかし、博士論文を提出しないまま、2010(平成22)年に退学。その後、2015(平成27)年ぐらいから、ひっそりと夜遅くに、大学の研究室を使用するようになったという。その間男性は、常勤の研究職を目指していたものの、2017(平成29)年3月頃、非常勤職を「雇い止め」となってしまった。その結果、家賃の支払いが滞り、住む家を失ってしまう。貧困の中、肉体労働のアルバイトを掛け持ちしながら、男性は大学で寝泊まりを続けていた。しかし9月末で大学移転のため、建物の取り壊しが決まっていたことから、男性は大学側から立ち退きを迫られていた。追い詰められた格好の男性はとうとう、研究室もろとも、自らを「滅却」してしまったのだ。
焼身自殺した院生と鈴藤勇次郎の共通点と相違点
この元院生も、そして勇次郎も、偶然か必然か、平成29年度の日本における自殺者の統計で最も自殺者が多い年齢、40代だった。元院生にとっては、2017(平成29)年の日本人の平均寿命が女性は87.26歳、男性は81.09歳であることから考えると、人生の折り返し地点に来ていた。勇次郎にとっては「人生50年」が当たり前だった当時にあっては、総決算の時期が目の前に迫っていた。そうしたときに、自分がどう生きるか?そしてどう死ぬか?の問題は、思春期の若者とは異なる不安感、焦燥感を伴い、心に大きくのしかかってくる。
思春期には耐えること、克服することができただろうが、肉体的にも精神的にも辛いこと、苦しいことが、40代という年齢になると、到底耐えられなくなってしまう。「若い頃は全く平気だったのに」と、自責の念に満たされさえする。そうした中、自分を「保つ」ために選ぶ行為こそが、「自殺」だったのかもしれない。「死んではいけない!生きていれば、きっといいことがある。あの時の苦悩が笑い話になる」と誰かにアドバイスされ、たとえそれに「納得した」としても、一度死を決意してしまった人間にとっては、そうした「正論」によって、自殺を止めよう!生きよう!という、自分自身の原動力となることは難しい。自分の「生きる」または、「死ぬ」ための「場所」は、勇次郎にとっては、明治新政府への抵抗のために立ち上がり、船出した咸臨丸の艦上であり、自衛官として一生を全うするのではなく、研究者として生きることを決めた元院生にとっては、自分の生き方を変えるための「場」、そして「チャンス」を提供してくれた、壊されゆく九州大学箱崎キャンパスだったのかもしれない。
最後に
彼らが「決めた」ことを、「傍観者」でしかない我々は、何も言うことはできない。「命は大切だ」「こうすればよかったのに」「そんなことで悩むなんて…世の中にはもっと苦しんでいる人が…」などと、彼らに対する強い憐憫の情が兆すゆえに、どうしても思わずにはいられない。しかし彼らにとっては、そのような言葉や思いは、逆に彼らをひどく傷つけるものでしかない。彼らの死を受け止める側の人間ができることはただ、彼らの魂の安寧を祈ることだけなのだ。
参考文献と資料
■村山有『修好事始 日米両国関係史 上』1960年 時事通信社
■戸羽山瀚(編)『江川坦庵全集 中巻』1962年 江川坦庵全集刊行会
■金井圓「1860年遣米使節余録 鈴藤致孝と咸臨丸難航図」『国際文化』 No. 102 1962年(6−8頁)国際文化振興会
■田村貞雄「咸臨丸」静岡新聞社出版局(編)『静岡県大百科事典』1978年(193頁)静岡新聞社
■高橋周楨『近世上毛偉人傳』1893/1982年 吾妻書館
■丸山知好「鈴藤勇次郎」宮崎十三八・安岡昭男(編)『幕末維新人名事典』1994年(531−532頁)新人物往来社
■横浜開港資料館(編・刊)『咸臨丸 太平洋を渡る −遣米使節140周年』2000年
■中里昭義(著・刊)『郷土刀工伝記 川越市・前橋市・玉村町共有 川越藩刀鍛冶藤枝太郎英義とその一門』2011年
■栗宮一樹『「咸臨丸難航図」を描いた幕府海軍士官 激動の幕末での海軍士官の半生』2015年 文芸社
■田村楽堂『紺碧の海のかなたに 咸臨丸と海の男達』2018年 文芸社
■「平均寿命 男女とも最高更新 世界で女性2位、男性3位」2018年7月20日『朝日新聞DIGITAL』
■「九大箱崎キャンパス火災 元院生の男性 放火し自殺か 身元判明 福岡東署」『西日本新聞』2018年9月16日
■「貧困に殺された九大オーバードクターはなぜ生活保護に頼らなかったか」『DIAMOND online』2018年9月21日
■「事件の涙 Human Crossroads: 第2夜 そして、研究棟の一室で 〜九州大学 ある‘研究者’の死」『NHK』2018年12月28日
■「咸臨丸難航図 鈴藤勇次郎原画」『横浜開港資料館』
■「自殺の統計・各年の状況」『厚生労働省』