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モノにされ、軽視されてきた動物。人と動物の距離感のこれまでとこれから

日本語の表現は多様である。人の死に際しても「死亡」「死去」「逝去」など、様々な表現がある。単に「死んだ」などとは決して言わない。「お亡くなりになった」「逝去された」などの丁重な言い方は、言葉においても死者を供養しているかのようである。一方で、動物の死を報じる時、一般的なメディアでは「死ぬ」「死んだ」などと簡潔な表記をする。動物の命は人間とは違うものとして扱うべきなのだろうか。


動物の死についての表記

■東京の住宅街で目撃 ミミズク死ぬ 車と接触か
「今月、東京 杉並区の住宅街で目撃されていたミミズク。「かわいい」と話題になっていましたが、25日に死んでいるのが見つかりました。車と接触したとみられています~以下略」(NHK NEWS 2019年2月25日 配信)

■アジアゾウの「はな子」死ぬ 福岡市動物園で唯一のゾウ
「福岡市動物園は27日、推定46歳の雌のアジアゾウ「はな子」が死んだと発表した。現在、園が飼育する唯一のゾウで、園の担当者は「人気があったのに。もっと生きていてほしかった」と残念がった」(産経フォト2017年 9月17日 配信)

テレビなどの報道メディアでは、動物の死を「死ぬ」「死んだ」などと表記する。長年に渡り親しまれたアイドル的存在であってもその最期を「死んだ」と表記されて終わるのは、いささかの違和感を抱く。

動物園などでは飼育している動物の死に際してフェイスブックなどで「亡くなる」「死亡する」などを使用しているが、「死亡」「死去」は人に対して使うものであるというのが放送側の見解であるようだ(報道研究と調査 NHK放送研究所)。


信仰の対象としての動物

なぜ、人に対して使う表記を動物には用いてはならないのか。人と動物は違うものであり、一緒にすることは人に対して無礼であるという考えによるものと思われる。しかし、かつて動物は家畜であると同時に信仰の対象でもあった。動物を神の使い、また神の化身とする民俗信仰は世界中に存在する。

オーストラリアの宗教形態であるトーテミズムは、部族を構成する各氏族にはトーテムという氏族のルーツがあり、多くは動物がこれにあてられ、その氏族はその動物は殺してはならないとされる(年に一度の例外があるが略す)。

日本では稲荷信仰が有名である。伏見稲荷や、豊川稲荷はじめ、「お稲荷さま」を祀る神社、社は無数に存在するし、神社には神の使い=「眷属」として様々な動物が崇拝されている。日吉大社の猿、春日大社や鹿島神宮の鹿などは日本人にはお馴染みだろう。

一方、寺院でも仏教の中でヒンドゥー教の呪術的要素が強く残る密教系にその傾向が顕著だ。動物が持つとされる神秘的な力にあやかろうとこちらも様々な動物が神格化した。特に孔雀を神格化した「孔雀明王」、象の神格化「聖天(歓喜天)」などといった仏神は非常に強力な力を持つとされ崇敬された。


「モノ」にされた動物

西洋ではこのような原始的なアニミズム(自然崇拝)をキリスト教が駆逐した歴史がある。キリスト教においては人間中心主義の要素が非常に大きい。旧約聖書「創世記」(新共同訳)にはこうある。

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」
 
「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」

世界を創造した全能の神を超える権威はなく、もはや自然は人間が敬い、畏れる存在ではなくなった。人間は神の似姿であり、神からその他の生命を統べる権利を与えられた。このような世界観を背景にキリスト教は世界を席巻。各国各民族の自然信仰、動物信仰を唯一絶対の神の名において支配した。

英語では生物、非生物に限らず、人間以外のモノは原則的には「he」(彼)でも「she」(彼女)ではなく「it」(それ)で表す。聖書に述べられている通り、地上に存在するすべては神の被造物であり、人間は神から自然を支配するよう命じられた。それゆえ、人間と動物・自然を同列に扱うわけにはいかない。つまりキリスト教文化圏の言語では動物を含む人間以外のすべては、基本的に「モノ」として扱われる。

こうした考えから、デカルト(1596~1650)の動物機械論など、人間以外を「物質」と見る世界観が発達した。キリスト教の世界観では人間は神が設計した自然の仕組みを読み解くことができ、それを利用できる。近代科学はこのようなキリスト教文化圏の発想から生まれた。

近現代に至るキリスト教文化圏=欧米諸国の優位と、英語の世界共通語化、そして科学的世界観の浸透。キリスト教が根底に横たわる科学的世界観は、動物から神性を奪い、物質に格下げされたのである。


動物・自然軽視への反省

一方で、現代では科学全能主義に対する反省から、自然保護、動物愛護が唱えられるようになった。欧米諸国では動物愛護主義者やベジタリアンを名のる人達が肉食を批判したり、時には、反捕鯨運動など過激な方向に向かうことも珍しくない。

英語の話が出たが、話者にとってその動物が近い場合、ペットや童話の擬人化などは別で「he」か「she」で表す。また「死んだ」は「die」だが、「pass away」のような「死亡」「亡くなった」に相当する丁寧な表現が、報道では動物にも適応される。この辺りは英語圏は日本よりも柔軟である。
日本国内の報道の表記問題は、近代における欧米諸国(キリスト教文化圏)の科学的世界観を、多様性に富む日本語で咀嚼した名残りなのかもしれない。


人と動物 揺らぐ関係

このような事例からは、現代においては、英語圏の動物に対する意識は日本よりも高いのではないとさえ思える。しかし、反捕鯨運動など、他国の文化を自国の文化を基準に置き圧迫しようとする態度は、かつてのキリスト教と根本的には変わっていないのではないだろうか。いずれにしろ、人間と動物の関係は微妙な揺らぎが存在する。

我々は動物をペットとして家族同然に扱い、死に際しては人間同様の葬式を行うことさえある。その一方で豚や牛を食べ、人間に不利益や悪影響を及ぼした場合は殺処分される。

ペットや動物園の動物は人間たちに愛されているが、人は動物扱いされることを嫌う。いかに動物好きでも四つん這いになって皿を舐めることに抵抗を感じない人は少ない。人間と動物の関係は常に揺らいでいるのだ。


最後に・・・

人間と動物は明らかに異なる存在なのは間違いない。その点では一見、人間の傲慢を感じるキリスト教の動物に対する認識は、単なるアニミズムを超え、その事実を直視した提言であるとも言える。

その本家の英語圏において展開される過剰な動物愛護、そして日本の報道における動物の死についての表記問題には、人間の動物に対するアンビバレント(二律背反)な感情が透けて見える。

我々はそれを単なる言葉の問題に終わらせず、動物との関係を通じて死とは、生命とは何かを考える機会にするべきである。


参考資料

■「聖書 (新共同訳)」(1996) 日本聖書協会
■脇本 平也「宗教学入門」(1997) 講談社
■ヘレン・エラーブ「キリスト教 封印の世界史」(1997) 徳間書店


ライター 渡邉
動物撃退器

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