墓・葬儀・法要の形式は簡略化の一途を歩んでいる。直葬、散骨、自然葬という言葉も珍しくなくなり、細々として儀礼儀式からよりシンプルな方向へ進んでいる。また現代は携帯化の時代でもある。パソコン、スマートフォンがあれば、かなりの割合でその「現場」に行かなくても事が足りるようになった。墓・葬儀・法要も例外ではない。
一見、軽薄にも見える墓・葬儀・法要の簡略化、携帯化だが、その背景には仏教の本質を見ることも可能である。日本の葬儀のほとんどは仏式であり、世界宗教たる仏教本来の性格は「携帯性」にあったからだ。
簡略化・携帯化の具体例
近年話題になっているドライブスルー式の墓は、車で焼香ゾーンに向かい「焼香ボタン」などを押すことで、車から降りることなく墓参を済ませることができる。また、ネットで遺族の代わりに僧侶が葬儀を行い、パソコンの前で参列するというサービスをテレビ番組で見たことがある。さらにスマートフォンで墓参りを済ませることができる「スマ墓」なるサービスも登場した。確認してはいないが、スマホ仏壇などというものも登場してもおかしくない情勢だ。
簡略化・携帯化に対する抵抗とその理由
こうした最新の墓・法要・葬儀などの形式には批判や違和感を持つ人が多い。かくいう筆者も中々受け入れるのは困難だと自覚している。これまでとは全く異なる奇妙な光景に対応できない人が抱いている思いは、故人の遺骨や「魂」を扱う手段としての簡略化、手軽さに対する不満であるといえる。その不満の根拠は苦労することとありがたみが比例するという考えにある。楽に手に入るものより、労苦を伴うものの方に価値があるという考え方は根強い。しかしそれはある意味で正しく、また誤解でもある。
仏教の携帯性とは
手軽であるということは携帯性に優れているということだ。日本の葬儀のほとんどが仏式で執り行われているが、仏教が世界宗教として広まったのはその携帯性にあった。元々仏教は出家という形が基本であり、脱共同体的な性格を有している。地縁、地統、血統といった個人と社会の結びつきを超越することが仏教の根本性格だ。この思想に従えば墓なる場所も解放されるべき、個人を縛る場所であるともいえる。
仏教やキリスト教、イスラム教を世界宗教ならしめた携帯性とは、例えば十字架は肩身離さず持ち歩くことができるし、ムスリムは世界のどこにいてもメッカの方向に礼拝する。阿弥陀如来の別名「尽十方無礙光如来」は全ての方向を照らし、その光を遮るものはないという意味を持つ。これらに共通するのは、土地から離れても神様がいるという携帯性であり、これにより民族、国家の枠を超え世界宗教となった。
日本の仏教における土着性
しかし、日本において仏教は、地縁、地統、血統と深く関係する神道と融合した独特の形体が生まれた。神道やユダヤ教のような民族宗教は携帯性とは真逆の土着性が特徴である。「一所懸命」との言葉通り、日本人は田畑を耕し、その土地は子々孫々に受け継がれてきた。その中心に土地の神(産土神)を祀る鎮守の森があり、五穀豊穣を願ってお祭りが行われる。その氏子たちによって共同体が構成される。
実際の記憶にはなくとも懐かしさを感じる日本の原風景であり、日本人のルーツ、アイデンティティはこうした地縁、血縁にある。ユダヤ系民族がイェルサレムにこだわり、アラブ民族と争っているのは、そこが故郷(ホーム)でありルーツであるからに他ならない。こうした日本の環境下において寺院は土地に根を下ろし、神社と並び、その土地の中心・象徴としての地位を占めるようになった。仏教の土着化である。
そして時を経て、時代は携帯性に舵を切っている。簡略化・携帯化の極みである「スマ墓」も、土着化する前の仏教本来の性格から考えると不自然とは言えない。
技術と心性のバランス
これは考え方次第だが、墓地という土着性故に、遠方で生活する人は縁が遠くなる。スマホで墓参ができるなら、むしろ墓とのつきあいが身近になり、かえって親密な関係へと再構築できる可能性もある。肝要なのは故人、祖先に真摯に向き合う姿勢であり、それがあればスマホの画面だろうが、本来なら変わらないはずだ。
しかし一方で、そうした手軽な対象に心を砕くのは難しい面もある。手間暇かけたものの方に愛着がわくのは当然だろう。山の頂上も自分の足で登頂するのと、ヘリコプターで降りるのとでは景色は全く違う。これは理屈で割り切れるものではない。簡略化・携帯化と、故人、祖先への手厚い供養に心を砕く心性のバランスが問われることになるだろう。
現代の神仏習合
これだけ墓・法要・葬儀の形式が多様化しているのも、見方によっては墓、葬儀というものが必要であることが前提になっているからに他ならない。不要ではあればそこまで技術を駆使して簡略化、携帯化することもない。逆に言えば簡略化してまで我々は墓を必要としている。
日本は土着的民族宗教・神道と外来世界宗教・仏教の、神仏習合の国である。今は祖先を敬う古来からの神道的な深層意識と、現代的な仏教の携帯性が習合する過渡期なのかもしれない。