人には誰しも、心の中に憧れの人、自分にとって手本になる人、尊敬する人がいる。あるいは、反面教師という言葉通り、「ああは絶対なりたくない」という人物像や生き様がある。「昭和の大事件」ものの書籍やテレビ番組で必ずと言っていいほど頻繁に登場する「ライフル魔」「寸又峡(すまたきょう)立てこもり」の金嬉老(きん・きろうこと、キム・ヒロ。改名後、権禧老、クォン・ヒロ。1927とも、1928〜2010)の「こうありたい」という「性格」「生き様」を決めた人物とは誰だったのだろうか。
金嬉老事件とは
金は、1968(昭和43)年2月20日夜、静岡県清水市(現・静岡市清水区)旭町のナイトクラブでライフル銃を乱射し、かねて金銭トラブルがあった稲川会系暴力団組員2人を射殺。その後深夜11時半ごろ、榛原(はいばら)郡本川根町(ほんかわねちょう。現・川根本町(かわねほんちょう))の寸又峡温泉の旅館に客と従業員合わせて16人を人質に籠城。その間、連日訪問する新聞・テレビ・ラジオなどのマスコミ陣が手にするテレビカメラやマイクの前で、不特定多数の視聴者・聴衆者・読者に対し、犯行動機や今までの人生、乱射事件前から遺恨があった清水警察署の刑事への要求など、自らの「思い」を淀みなく発言した。「テレビ時代」全盛期であった当時の日本中の人々は、金の堂々とした態度、天性の「スター性」や「カリスマ性」に、大きな衝撃を受けた。4日後の24日の午後3時25分に、記者団の背後にいた警察官9人に取り押さえられ、金は逮捕される。人質は全員無事に解放された。
金嬉老の生い立ちや育ってきた環境、趣味嗜好とは
韓国・釜山から東京に出てきた父・権命述と、同じく釜山から出てきていた母・朴得淑の間に生まれた金は5歳の時、当時清水港で手広く人夫出しの仕事をしていた父を不慮の事故で亡くす。母は父の戸籍に入っていなかったことから、父方の親族ともめ、母は家を出る。そして姉と妹と共に、一家は清水尋常小学校(現・静岡市立清水小学校)の運動場で野宿生活をすることになった。そうなると、学校に通う子どもたちから嫌な目で見られたり、いじめに遭ったりする。後に一家は、学校の近くにバラック小屋を建てて住むようになったものの、「朝鮮人」ということで差別の対象である状況は変わらない。当初、「学校は楽しいところだ」と期待して通い始めていたが、誰も仲間や味方のいなかった金は、からかいやいじめのターゲットであり続けた。2年生の2学期から、「学校は、僕たち朝鮮人が行くところではない。もう学校なんか死んでも嫌だ」と、学校に通わなくなってしまった。
そんな金だが、『のらくろ』(1931〜1941年)や『タンクタンクロー』(1934〜1936年)、『冒険ダン吉』(1933〜1939年)などの子どもらしい漫画に加え、講談社の絵本で戦国時代の伝説的豪傑を描いた『岩見重太郎(いわみじゅうたろう、生没年不明)』(1936年)、支那事変の際、戦車隊を率いて武功を挙げた西住小次郎(にしずみこじろう、1914〜1938)を描いた『軍神西住大尉』(1939年)など、当時のあどけない「軍国少年」の誰しもが胸を躍らせた、男らしくも勇猛果敢な主人公を描いた話を好んでいた。昭和14(1939)年に上原謙主演で映画化された「西住戦車隊」ものの映画は3度も観に行き、敵方の中国兵に対して、心から怒りを覚えてしまうほどのめり込んだという。
また、後に西住小次郎同様、軍神となった日露戦争の海軍軍人・広瀬武夫中佐や、旅順攻略を指揮した乃木希典のことなども、自分なりの情景を頭に描き、「立派な人」とイメージづけていたという。
金嬉老の心の支えだった清水次郎長
これらの、「軍国主義」という日本の「時代」を反映した軍人たちに加え、金の心を奪っていたのが、強気を助け、弱きをくじく大親分として有名な、清水次郎長(しみずのじろちょう、1820〜1893)だった。金は頻繁に、次郎長の墓所がある清水市内(現・清水区南岡町)の梅蔭寺(ばいいんじ)へ遊びに行った。特に寺内の、堤達男(1918〜1988)作の次郎長像を見るのが好きで、「おれも今に大きくなったら、必ず貧乏人を助けて、強いやつをやっつけてやるんだ」と心に誓い、次郎長そのものが金の夢となった。長じて後、次郎長の跡を継いだという人物やその子分たちが町でけんかをしたり、弱い者いじめをしているのを目にしていた金だったが、「現実」はともかく、映画などで描かれる「次郎長」のようになりたいという気持ちは消えず、梅蔭寺内の次郎長の銅像そばの池のほとりに腰を下ろし、怒っているような次郎長の顔を何時間も眺めていたという。
清水次郎長に憧れていた金嬉老のエピソード
夫の三回忌を終えた後、母は夫に雇われていた金鐘錫と再婚した。「母が取られた」ような喪失感に加え、継父は仕事熱心だった父親とは異なり、酒を飲んでは母に手を挙げるような人物だったため、金は家に居場所をなくしてしまった。その結果、家出や窃盗を繰り返し、各地を放浪する荒れた生活を送るようになる。14歳の頃に入れられた少年院を皮切りに、東京の朝鮮人矯正施設、そして刑務所の出たり入ったりを繰り返していた金は、いつしか土地の暴力団関係者とも顔見知りになっていく。そうした日々においても、男伊達、義侠心の象徴である清水次郎長への憧憬を忘れる事はなかった。金はヤクザ者同士で徒党を組むことを嫌い、「目立った」存在となる。それゆえ警察関係者には、「一匹狼のヤクザ」と認識されていた。一連の事件の後、金を知る人々は、「おそらく10人のうち8人までは悪くない人と言う」「常に弱い人、特に女性の立場に立っていた」「強い者には殊に反発した」と証言した。例えば掛川市のタクシー運転手は、「私たちがチンピラを乗せて金をもらえなくて因縁をつけられていると、『おい、乗ったらちゃんと払え』と一言言ってくれた。その時は本当に助かった」と、金に感謝していたのだ。
そんな金嬉老が憧れていた清水次郎長とはどんな人物だったか
そのような金の「見本」のひとりであった清水次郎長とはどんな人物だったのだろうか。次郎長は単なる「海道一(かいどういち)の大親分」にとどまらず、活動拠点であった清水港のみならず、静岡県全体の発展に尽力した、実にスケールの大きな人物だった。
次郎長は駿河国清水湊(現・静岡県静岡市清水区)の船持(ふなもち)船頭・雲不見三右衛門(くもみずさんえもん)の三男・長五郎として生まれた。
当時の清水湊は、江戸へ米を送る積出港として、そして大坂(現・大阪府)などから荷物を運んでくる船が入港する、とても活気がある湊だった。文政3(1820)年正月1日生まれの次郎長だったが、「元日生まれは賢才か極悪か」という俗信から、母の弟で、米問屋・甲田屋を経営していた山本次郎八の養子に入ることとなった。我々が知る「次郎長」の名前は実は、「次郎八のところの長五郎」という意味である。幼少の頃から悪童だった次郎長は、寺子屋を追放されてしまうほどだった。家の金を持ち出して出奔することもあったが、養父の死後は、家業を継いでまじめに働いていた。しかし20歳の時に、たまたま出会った旅の僧に、「残り5年の命、25歳が寿命だ」と予言されてしまう。それを聞いた次郎長は、「どうせ死ぬなら太く短く生きてやる」と、任侠の道に入ることを決意した。次郎長には天性の胆力、博打運、カリスマ性、統率力があったのだろう。自暴自棄の単なる渡世人に終わることなく、甲州(現・山梨県)黒駒の勝蔵、尾州(現・愛知県尾張西部から岐阜県西濃地域)穂北の久六、伊勢(現・三重県中部)の穴生徳などの大親分と争い、最終的に富士川や海上交通の縄張りを手に入れた。名実ともに「海道一の大親分」となっていた次郎長は、そこで終わらない。明治に入ってから、侠客としての生き様から、清水港の整備・地域の治安維持・旧幕臣とその家族らの保護・静岡の産業振興・文化資源の再興・英語教育・富士山開拓・地域医療・交通網の拡充など、地域発展に奔走する生き方へと舵を切ることになる。
清水次郎長の生き方を変えた運命的な出会いとは
そのきっかけは慶応4年(1868)年、次郎長が49歳だった時に、駿府藩が置かれることになった。その結果、それまでの駿府町奉行が廃止され、東征大総督府から駿府町差配役に任命された伏谷如水(ふせやじょすい、1818〜1889)が次郎長と対面することになった。そこで伏谷から見込まれた次郎長は、街道警備役、今で言う「警察署長」に任命される。次郎長は「役人になるなんて、とんでもない」と断ったが、如水は「今は徳川も薩長もなく天子様を皆でお迎えして新しい時代を築かねばならない」として、己を捨てて清水の湊を守り、駿府・東海道の治安を守ることは天子様のお役に立つことだと説いた。それに感銘を受けた次郎長は、同年7月まで街道警護役として地域のために働いた。
しかもこの年は、戊辰戦争が起こった年でもあった。榎本武揚(えのもとたけあき、1836〜1908)が率いる旧幕府軍に属していた軍艦8隻が8月に品川沖を出発し、蝦夷地(現・北海道)に向かっていた。しかし房州沖(現・銚子沖)で暴風雨に遭って散り散りになり、帆柱を折られた咸臨(かんりん)丸は下田港を経て、清水湊に避難した。しかし9月18日に官軍側の軍艦3隻から砲撃されてしまう。咸臨丸側は白旗を上げて交戦の意志がないことを示したが、官兵は攻撃を止めず、とうとう乗組員全員を討ち取ってしまった。戦いが終わった後、周囲の人々は、「賊軍である咸臨丸の乗組員の遺体には触れるな。埋葬するな。この掟を破ったものは反逆者として厳罰に処する」という駿府藩役所からのお触れを憚って遺体を回収することなく、海中や沿岸に放置していた。悪臭とひどい景観に、漁師など、湊で働く人々は次郎長に何とかして欲しいと直訴した。それを受けて次郎長は、「たとえ知らない人間であってもそこで仏になってしまえば賊軍も官軍もない。その土地の人間が供養するのが人の情というものだ」と、子分たちに遺体回収を命じ、丁重に向島の土左衛門松の根元に埋葬した。お触れに背いたとして藩役所から出頭命令を受けた次郎長だったが、逃げも隠れもせず、自分のしたことは人の道として当たり前のことだと主張した。その結果、お咎めなしとなった。更にこのことを聞き知った榎本武揚や山岡鉄舟(1836〜1888)は深く感激し、次郎長の支援者となったのだ。山岡は事件の翌年、咸臨丸の犠牲者の墓碑銘に「壮士の墓」と揮毫し、榎本は1887(明治20)年に興津(おきつ)の清見寺(せいけんじ)に立てられた、「咸臨丸殉難者記念碑」の表に書かれた「食人之食者死人之事(「人の食を食む者、人の事に死す」。中国の『史記』の言葉。「幕府から禄をもらっていた者は、幕府のために死ねる」という意味)」を揮毫した。
晩年の次郎長は、名産の静岡茶を国内はもちろんのこと、海外まで輸出できるほどの今で言う「物流システム」を有する国際貿易港、なおかつ軍艦が出入りできるほどの大きな港となった清水湊に、船宿「末廣」を開業していた。そこで偶然、金嬉老が憧れた人物のひとりである、海軍軍人・広瀬武夫と出会っていた。ある時、広瀬と共に50人ほどの軍人が次郎長を訪ねた。そこで次郎長は「この中に男らしい男は一匹もいねえな」と言った。すると広瀬はそれに応じ、「ひとつ手並みを見せてやる」と自分のみぞおちを自ら50〜60発ほど殴ってみせた。すると次郎長は「お前は男らしい」と感心し、腹を割った歓談の時を持ったという。
金嬉老と清水次郎長の違いの一つは「恵まれた出会いの有無」
人の運命は本当にわからない。もしも人生のどこかで金が次郎長における伏谷如水、そして榎本武揚や山岡鉄舟のような人物に出会えていれば、たとえ「朝鮮人」という、当時、そして現在に至るまで、日本社会における強烈なスティグマを背負っていたとしても、次郎長に憧れ、一匹狼のヤクザを経ての「ライフル魔」の籠城事件。そして無期懲役の判決による、長期の収監。仮出獄後、両親のふるさとである韓国に帰ったものの、後に男女関係の揉め事で事件を起こして韓国でも収監されるなど、必ずしも「恵まれたもの」とは言い難い晩年を過ごすことはなかっただろう。それはもちろん、次郎長も同じだ。いくら本人に並外れた胆力や「カリスマ」があったとしても、人との出会いが金のように全く恵まれていなかったとしたら、単なる無宿者の博徒として、東海道のどこかで野垂れ死んでいた可能性もあるのだ。次郎長は1893(明治26)年、78歳の時、こじらせた風邪で亡くなってしまう。家族に看取られ、その葬儀には3000人を超える参列者が集い、侠客としては長命だったその死を悼んだ。そして金が通いつめた次郎長の墓所に据えられた墓石の揮毫は、盟友・榎本武揚の手によるものだった。まさに立派な最期だった。
金嬉老の人柄を評すある証言
逮捕後の金は裁判における意見陳述で、子どもの頃は、朝鮮人だ、朝鮮人だと言われながらも、軍神と言われた西住小次郎らが行ったことで頭がいっぱいだった。それゆえに自分の気持ちは朝鮮人ではなかった。日本人になりきっていた、と述べていた。それに対して小説家で古代史研究家の金達寿(ダルス、1920〜1997)は当時金の「特別弁護人」として意見陳述を述べる立場であったため、金の孤独な生育環境を指摘し、「自分自身それであったはずの朝鮮人というものからは、次第に遠心的になりました…(略)…(そのためには)どこかに求心の目標がなくてはならない。彼にとってのそれは、日本人となることでありました。彼も自分がまったくの日本人となることのできないことはどこかで知っていたはずでありますが、しかし、朝鮮人というものからは遠ざかれば遠ざかるだけ、それだけ日本人に近づくことになるものと考えたのかも知れません…(略)…彼はなおも日本人社会のなかに自身を没しておりましたが…(略)…結局、日本人になることはできませんでした…(略)…かといって今更、朝鮮人の側に戻ることもできない。なぜなら、そこは彼自身早くから遠心的となって離れ去ったところであったからであります…(略)…このように引き裂かれ、解体された人間が、多少なりとも自己回復をそのうちに意識しはじめるとすれば、それはどのようなかたちとなってあらわれるのでありましょうか」と問うている。朝鮮人として日本に生まれ落ちた金が生きるための拠り所としたものは、単なる憧れの存在を超え、次郎長そのものと一体化することだったのではないか。
最後に…
皮肉にも、次郎長が立派なものにした清水港は、1910(明治43)年の日韓併合前後から港湾労働や鉄道、土地開墾工事などの仕事を求めた朝鮮人が多く集まっていた「場所」となり、1921(大正10)年には朝鮮半島との定期航路が開かれ、ますますそれが顕著なものとなっていた。金が清水次郎長に惹き付けられ、そのように生きようと心に誓い、実際に、金のできる限りの力をもって生きてしまったのは、ある種の歴史の不幸な「必然」だったのかもしれない。だが、もしも黄泉の国というものが実在しているとしたら、次郎長は金のことをどのように迎えただろうか。広瀬武夫のように、「男の中の男だ」と喜んでくれただろうか。もし次郎長がそうしてくれたとしたら、金の傷つき続けた魂は一瞬にして癒えるはずであるのだが…
参考文献と資料
■岡村昭彦(編)『弱虫・泣虫・甘ったれ ある在日朝鮮人の生い立ち』1968年 三省堂
■崔昌華『金嬉老事件と少数民族』1968年 酒井書店
■金達寿「金嬉老なる人物」武田清子(編・解説)『戦後日本思想大系 2 人権の思想』1970年 筑摩書房
■本田靖春『私戦』1978/1982/2002/2012年 河出書房新社
■田村貞雄「咸臨丸」静岡新聞社出版局(編)『静岡県大百科事典』1978年(193頁)静岡新聞社
■山本リエ『金嬉老とオモニ −そして今−』1982年 創樹社
■田村貞雄「清水次郎長」静岡新聞社出版局(編)『静岡県歴史人物事典』1991年(231−232頁)静岡新聞社
■金嬉老『われ生きたり』1999年 新潮社
■芳賀登「清水次郎長」竹内誠・深井雅海(編)『日本近世人名辞典』2005年(470頁)吉川弘文館
■奥村博史(編)『毎日ムックシリーズ 20世紀の記憶 新装版 1968年グラフィティ』2010年 毎日新聞社
■田口英爾「年表・清水次郎長」2001年 清水港船宿記念館 次郎長の船宿「末廣」
■八木澤高明『日本殺人巡礼』2017年 亜紀書房
■高月靖『在日異人伝』2018年 バジリコ
■『東海名区 巨鼇山清見寺畧記』パンフレット
■『武田信玄公御朱印地 清水次郎長菩提寺 幽香山梅蔭禅寺』パンフレット
■『清水次郎長の船宿 末廣』パンフレット
■『清水湊 次郎長生家』パンフレット