孤独死は”Kodokushi”というローマ字表記で英語版ウィキペディアでも紹介される世界に知られた日本語となった。海外メディアは”Kodokushi"を日本の急速な高齢化や長い経済の停滞の問題と絡めて報道することが多い。アパートの一室で死後しばらくたってから遺体が発見された現場の凄惨な様子や、その清掃を請け負う業者の仕事ぶりも報道されている。それら報道の中から、アラブ系メディアのアルジャジーラが孤独死などがあった部屋の清掃の仕事をしている若い日本人女性を姿をリポートした記事の一部を要約して紹介しよう。
アルジャジーラが報道する日本の孤独死の現場で働く女性
「日本で”孤独死”後の清掃を行う女性」
私たちがToDo-companyで働くミユに会った時、彼女は24歳だった。彼女の会社は自分たちを遺品処理業者と称しているが、亡くなった人の家の清掃も行うことが多い。彼らはしばしば日本語で言うところの”Kodokushi”の現場に立ち会う。急速な高齢化により多くの高齢者が社会との繋がりもなく一人で暮らしており、孤独死は日本各地で増加している現象だ。
ミユは従業員10名の会社で最も若いたった一人の女性だ。陽気でニコニコとしている女性だが、この仕事に就いたきっかけは関係の悪かった父親が突然亡くなったったことだった。ミユは亡くなった人の家族の経験がどういうものか知っているから、遺族を支えたいし、助けたいと思ったのだという。
ミユが遺品整理や人が亡くなった部屋の片付けの仕事に絞って職を探し始めた時、ほとんどの会社が単に作業内容を列挙した求人票を出していた。しかしToDo-campanyだけが「亡くなった人の家族に適切な言葉をかける」ことを仕事内容として強調しており、それをミユは気に入り入社した。
遺品を受け取ろうとしない遺族が増加
過去2年間に彼女は90室もの部屋を清掃した。くっきりと遺体の茶色い型が残った腐りかけの布マット、猫の骸骨、シンクにゴミが溢れた汚れたキッチン。「清掃をしている間、私は誰がここに住んでいたのか、どんな人生だったのか、どんな仕事をしていたのか、家族は亡くなった人をどう思っていたのかと考えます。」「私たちは家族が探しているものや、家族にとって大事なものを探しだします。写真とか、特別な何かとか。」
ミユら従業員は清掃を終えて部屋が現状回復されると、花と線香を備えて手を合わせる。形見となるものは遺族に渡すが、遺族が受け取りを拒否する場合は形見を寺にもって行き、供養の後に燃やしてしまう。ミユは「形見を家族がいらないと言った時は悲しくなります。それは亡くなった人が残したものだし、その人の何かしらの思い出だから。」と言う。
遺品整理業者の組合によると、日本全国で4000社ほど同業の会社があるという。「年々人々はお互いに繋がらなくなっていると感じます。絆を失うことやコミュニケーションをしなくなることはが孤独死の背景にあると思います。」とミユは語る。
高齢者だけが対象ではなくなってきている孤独死
ミユにとっては、孤独死は高齢者だけの現象ではない。彼女の心に残っている20代の女性がいる。彼女はペットと一緒に彼女のアパートの部屋で亡くなった。ペットの犬は玄関先で大きく口を開けて上を見上げ、明らかに助けを求めているように死んでいた。そのアパートの大家は犬が狂ったように吠え続けていたのを聞いていた。辛い事件の現場だったが、ミユが最も心痛めたのは亡くなった女性の父親との会話だった。「父親は私に言ったんです。自分は本当に彼女に辛く当たって、厳しい父親だったのだって。それを後悔しているって。私は何もできないと感じました。彼の為に何もできない。本当に無力だと感じました。」
多くの場合、孤独死は家族と関係性が薄く誰にも助けを求められない人に起こるとミユは言う。社会もまた一人で亡くなった人を自己責任だとみなす。それは人々が孤独に亡くなった人がいるという事実を、自分たちの不名誉だと見るからかもしれないとミユは思っている。
ミユにとって、この仕事ほど家族の関係性を暴くものはない。「もし人が亡くなってしまったら、後からはあなたはその人に何もできないし、亡くなった時に、その人がいかに大切だったか知ることになります。」「今があなたが家族やその他の人たちとコミュニケーションし、関係を結ぶチャンスなんです。」
ミユがみた孤独死の一側面
アルジャジーラが取材したミユの繊細な優しさは心に残る。彼女は日本で人々が互いの繋がりを希薄にしていることを嘆いており、その指摘は孤独死が多発する原因のひとつの側面ではある。しかし特に家族の問題に関して、その絆を強く結ぶことを全ての人に求めることはできない。各家庭の事情は様々で、その簡単には離れられない愛憎の絆の故に痛ましい事件が起こることも少なくはないのだ。では、家族の機能を補完するものとして地域社会の連帯を見直すことについてはどうか。これに関しては、アメリカのニューヨークタイムス紙が、アルジャジーラとは違った視点から報道している。
ニューヨーク・タイムズが報じた団地の孤独
ニューヨーク・タイムズは、1961年に完成した東京郊外の公営団地で暮らす高齢者2人を取材している。
この団地では高齢化が進み、孤独死が多発している。取材を受けたひとりは団地ができた当初からの住人で、夫と一人娘に先立たれて一人暮らしする91歳の女性、もうひとりはバブル崩壊のあおりで自分の会社を倒産させて家族にも見放され、ひとりで団地に流れてきた83歳の男性。ふたりには頼り頼られる家族はない。
女性は地域社会との繋がりを持とうとするが、団地ができた当初に一斉に入居した同世代の入居者はみな同じように年をとり、団地全体が高齢化しているために、それは不安定で心もとない繋がりだ。また、男性は自分の生活を豊かに組み立てることを知らない。ひたすら仕事に邁進することが男らしさの象徴であった時代を生きた彼の部屋は荒れ放題で、人との繋がりを積極的に作ることを望まない。
ニューヨーク・タイムズは急速な高齢化の進む東京の郊外で、人が人と繋がり会うための地域の体力そのものが落ちている様子を、二人のライフストーリーを通じてレポートしている。
先進国の孤独 日本が注目される理由
海外の報道機関が孤独死を報道するのは、高齢化は多くの先進国が共通に抱える問題であり、特に高齢化のスピードが早い日本で、それがどのように国民生活に影響を与え、どのように社会が対処していくのかが注目を集めるからだ。
また、高齢化の問題が深刻でなくとも、高度に発展したはずの社会システムの裏側で簡単に人が孤立してしまう状況は多くの国で発生している。イギリスでは「孤独は一日タバコを15本吸うのと同じぐらい、健康に害を与える」として2018年1月に「孤独担当大臣」という職を政府内に新設し、政策として問題に取り組む姿勢を見せているほどだ。
海外報道にみえる死者を悼む心とささやかな希望
海外メディアによる日本の孤独死に関する報道の中には、アルジャジーラやニューヨーク・タイムズの記事のように、孤独死した人の人生とその寂しさ、孤独死の現場に立ち会う人々の気持ちに焦点をあてる報道が散見される。それはすなわち、孤独死をひとつの社会現象として取材するだけでは済まされない、死を悼む取材側の気持ちの反映なのだろう。
誰かが亡くなって遺体が傷むまで放置されていたとしても、部屋が完璧に清掃されればまるで最初からそこに誰も存在しなかったかのようになる。しかしそこにあったはずの人生までなかったことにするのは心が痛む。ミユのように現場でその死に心を痛めてくれる人いるという事実を伝えることは、それが孤独な社会のささやかな希望と映るからなのだろう。