葬儀の場で笑うことはもちろん不謹慎とされる。一方で、筆者は9月に亡くなった女優・樹木希林さん(1943~2018)の在りし日の映像をテレビ番組で拝見した際、出演者の顔が画面下に映されるいわゆるワイプでの表情が気になった。樹木さんのギャグシーンが流れても一部の人を除き、ほとんどの人が神妙な顔つきで笑いが浮かぶことはなかった。稀代のコメディエンヌとしては笑いの場面を鉄面皮で反応されても困るだろう。死は厳粛なものであることは間違いない。しかし笑いの場面でも笑ってはいけないのか。
2つの「葬儀」
11月16日 漫画家・さくらももこさん(1965~2018)の「お別れの会」が、その次の週には俳優・津川雅彦さん(1940~2018)とその妻で女優の朝丘雪路さん(1973~2018)の「お別れの会」が営まれた。
さくらさんのお別れ会では桑田佳祐が「ちびまるこちゃん」のエンディングテーマを巡るさくらさんとのやりとりを語り、場内の笑いを誘った。最後は桑田がその「100万年の幸せ!!」を熱唱して、式は賑やかなりし雰囲気で締め括られた。「100万年の幸せ!!」というタイトルは、さくらさんの旅立ちを飾るに相応しいと感じた。
津川雅彦さん・朝丘雪路さんの場合も生前のエピソードが披露され、参列者に笑いを与えた。最後に舞台のかけ声「大向う」で2人の名がコールされると、「ご両人」の掛け声も飛び出すなどし、盛大な拍手に包まれた。名優に相応しい幕引きとなったといえる。
祭壇はトルコキキョウ、カーネーション、ユリなど、色とりどりの4000本の花が彩る華やかなものだった。これらは生前、津川さんが「お葬式は祭りだ」と話していたことから、喪主である長女が津川さんの意向をかなえた形だという。
いずれも明るく見送ってほしいとの生前の故人の意向で華やかな様子が伝えられた。
「笑い」が最大のタブーとされてきた歴史
葬儀に涙はつきものである。古代日本やエジプト、ヨーロッパでは、「泣き女」という風習が存在した。
「涙は死者への馳走であるとされ、一説には、悪霊払いや魂呼ばいとしての性格も併せ持つとされる」(Wikipediaより)
中国・朝鮮半島では風習ではなく、職業としての「泣き女」が現代でも存在していることは有名だ。彼女たち遺族よりも大きく長く泣き続ける。これは泣く人が多いほど故人の徳が高くなるという儒教の教えによるところが大きい。また、チベットの村では今でもこの風習が残っており、故人の家族は四十九日に行われる葬送儀礼において泣き続ける。村の女性は子供の頃から泣くことを練習するという。
いずれにせよ葬儀において「泣く」「涙」は重要な要素で「笑い」は最大のタブーであるといってよい。参列者もまた「泣き女」を演じざるをえないのだ。
筆者の叔父の葬儀ではこれまでの人生をまとめた映像が公開された。結婚式に使われるような構図で、最後には「皆さま長い間お世話になりました」との言葉で締められた。会場は無反応であったが、拍手くらいしてもよかったと思う。それができないのは、未だに笑いが不謹慎とされているからである。
そこまで笑いは放棄されなければならないものか。不慮の事故や陰惨な事件、あるいは子供の死などに対しては当然としても、寿命を使いきり、生ききった人に対してはどうか。「大往生」という言葉があるが、大往生した故人を送る場で泣くのは矛盾に思う。死を旅立ちと考えた場合、見送る側がただ別れを惜しみ悲しむだけでは、故人も安心して旅立つことはできないだろう。
そもそも「笑い」とは何か
笑いといっても微笑、哄笑、嘲笑と色々ある。フランソワ・ラブレー(1483?~1553)は「笑うはこれ人間の本性なればなりけり」と言ったが、ラブレーの笑いは社会に対する風刺としての笑いであるし、モナリザの微笑の意味は今もって世界の謎だ。
昔の日本のドラマでは登場人物たちが呵呵大笑してエンディングというのが様式美であった。ドラマであるからには、何らかのハプニングやアクシデントが発生し、最後は何かしらの形で一件落着というのがお決まりだ。そこでの大笑いは安堵の表現である。
他方、邪悪な笑いもある。他人の不幸な様を見てあざ笑うなどは不謹慎の最たるものだろう。自暴自棄、ひらきなおりの笑いもある。笑いといっても一様ではない。
葬儀に相応しい「笑い」とは
では葬儀に相応しい笑いとはなんだろうか。筆者は「故人に届く笑い」であると思う。
みんな笑っている。悲嘆にくれてなどいない、心配するな。この笑いが聞こえるか?伝わっているか?そういう思いを故人に届ける笑いだ。
葬儀の場では誰しも神妙な表現で頭を下げる。しかし形だけの神妙さはその場限りのものだ。葬儀の帰り道、知人同士で喫茶店などに立ち寄り、いつもの世間話になった経験がないだろうか。式場を出ればそこは生者たちの日常の世界である。いつまでも神妙であるわけにはいかない。
しかし葬儀で、例えば故人の顔を見て良い顔をしているなどと談笑したことは日常に持ち帰ることができる。コーヒーを片手に「あいつ良い顔してたな」と話せば、「そういえば高校時代に~」などと談笑の続きに入ることもあるだろう。その傍らで故人も一緒になって笑っているかもしれない。
津川雅彦さんが残した言葉 「お葬式はお祭り」
かつて通夜の場は故人の在りし日の思い出話で大いに盛り上がるものであった。まさに津川さんの言う「お葬式は祭り」である。
筆者の友人は自分の葬儀では棺桶をお神輿にして担いでもらいたいと話していた。筆者はその様子を想像して愉快な気持ちになった。
葬儀における笑いについて考えてみる必要がある。それは葬儀の存在意義の見直しにもつながると思われる。直葬、密葬、散骨などの簡潔な葬送は時代の必然であるかもしれないが、儀式の放棄であり、祭りの放棄でもある。知人同士が、あるいは故人と語り合い、笑い合う場としての葬儀は死者との新たな関係の始まりでもあるはずだ。そして大いに笑い、明日からの生活に備えるのも「祭り」の意義である。