被爆都市の広島、長崎について、俗に「怒りの広島 祈りの長崎」と言われる。「怒りの広島」は難しい話ではない。「原爆許すまじ」という憤りを感じるそのままの意味であろう。原爆といえばまず広島であり、最大の被爆モニュメント 原爆ドームを連想する人は多い。
これに対し長崎はかなり地味な印象がある。同じ被爆都市として核兵器の悲惨さを伝え、核の廃止と平和を訴える使命があるはずだが、長崎は広島に比べて静かな印象だ。この静けさと、キリスト教都市のイメージは「祈りの長崎」にふさわしいといえるが、「祈りの長崎」には、具体的には2つのキーワードがあると思われる。「浦上燔祭(はんさい)説」と、失われた旧浦上天主堂である。
浦上燔祭説
「浦上燔祭説」は長崎の爆心地、浦上地区の医師でカトリック信者の永井博が唱えた。「燔祭」とは生け贄の動物を祭壇で焼き神に捧げる儀式である。
永井は、原爆投下は「神の摂理」であり、浦上の原爆死没者は「汚れなき小羊の燔祭」であるとした。結果的に長崎(浦上)は最後の原爆投下となる。永井は平和を実現するために、浦上の民に神が与えた試練であると解釈した。
これには当然批判も出る。原爆投下を正当化しかねないし、では、他の事件・事故で死んだ人達の意味は何か。それでも永井は長崎において「聖者」として敬われている。筆者も高校の修学旅行で長崎を訪れた時、永井の話を伝え聞き涙した記憶がある。自らも被爆し子供たちを残して逝かねばならない過酷な運命を背負ってなお、「怒り」ではなく「祈り」の道を選んだ永井の言説には賛否はあれど迫力があった。
旧浦上天主堂
もうひとつのキーワードは、旧浦上天主堂の存在である。爆心地である浦上はキリシタン集落であり、その中心となる教会が浦上天主堂だった。キリスト教国・アメリカがキリシタンの街に原爆を投下したのである。そして被爆で廃墟となった天主堂は原爆遺構として残され、もうひとつの原爆ドームとなるはずだった。
当時の写真を見る限り、無惨に破壊された天主堂は原爆ドームに匹敵するモニュメントになっていたと予想される。そして加害者がキリスト教国・アメリカによるものであることを鑑みれば、原爆ドームを凌ぐインパクトがあったはずだ。しかし天主堂は撤去され、同じ地に新たな天主堂が建設された。祈りの長崎と言いながら、長崎には祈りの依代が存在しないのである。
天主堂撤去については様々な憶測が流れている。キリスト教国・アメリカにとっては都合が悪く圧力をかけたと指摘する声もある。また、本稿のテーマではないので詳しくは触れないが、そもそも長崎にはキリシタンを巡る宗教的二重構造があり、広島のように県民が一体にはなれないズレがあった。経緯はともあれ負の記憶の刻印といえるモニュメントを消し去ったことは、広島に比べ長崎が軽視されている要因であり、こうした現状から長崎を「劣等被爆都市」と呼んでいる人もいる。
もうひとつの見方
だが一方で、こうは言えないか。原爆ドームのような遺構は負の感情を呼び起こす。その存在感は周囲を圧していて静謐な祈りのモニュメントの印象は薄い。もちろん原爆ドームには死者への鎮魂と平和への祈りがこれ以上ないほど込められている。しかしその残骸から受ける印象は、悪魔の兵器に対する憤りの方が強いように思われる。まさに「怒りの広島」の象徴といえる。
もし廃墟となった天主堂がそのまま残されていたとしたら、もうひとつの「怒りの長崎」が生まれただけかもしれない。撤去をめぐる真相はどうあれ、あえて怒りの遺産・天主堂を葬った長崎に、さらに永井説を加えるなら、長崎には平和への祈りだけが残ったといえるのではないだろうか。
この2つのキーワードからは「核への怒り」より「平和への祈り」が見えてくる。
祈りと願い
長崎の祈りには、原爆投下の順番も大きく影響していると思われる。広島は人類最初の被爆であった。対して長崎は人類最後の被爆であるとは決定していない。しかし、いずれ地上からは全ての核兵器が廃棄され、長崎は人類最後の被爆地であらねばならない。永井が浦上の民を小羊に見立てた理由はその願い故だろう。長崎はそれ自体が鎮魂と祈りのモニュメントであるとは言い過ぎだろうか。