昭和62年(1987)7月17日、昭和を代表する銀幕の大スター・石原裕次郎が、働き盛りの52歳で亡くなった。しかしその前日の16日には、「裕ちゃん」同様、日本の「戦後」を代表する人物のひとりである、ボードビリアンのトニー谷も69歳で亡くなっていたのだ。
敗戦後、欧米的なものを積極的に取りいれたトニー谷
「トニー谷」と言われても、今となっては知る人も少なくなってしまっているが、昭和12年(1937)に始まった日中戦争から第2次世界大戦敗戦まで、日本においては「敵性語」「敵性文化」などと排斥されていたにもかかわらず、敗戦後は「手のひら返し」に見えるほど、積極的に「英語」「西洋文化」を受容・享受した「日本」、そして「日本人」をデフォルメしたような、ポマードで撫でつけたオールバックヘア、フォックス型の黒縁めがねにちょび髭で、「レディース・アンド・ジェントルメン・アンド・おとっつぁん・おっかさん・オコンバンワ」、「アイ・ブラ・ユー」などの「トニー・イングリッシュ」と呼ばれる、日本語混じりの独特の「カタコト英語」を話しながら、巧みにそろばんをかき鳴らすなどの軽妙な話芸を披露していた人物だ。
複雑で過酷だったトニー谷の家庭環境
大正6年(1917)10月、東京日本橋小伝馬町で生まれた「チャキチャキの江戸っ子」だったトニーには、実は、「触れられたくない過去」があった。それはまさに、彼自らが生み出したギャグフレーズ、「家庭の事情」だった。
昭和28年(1953)の雑誌インタビューで、当時36歳だったトニーが自ら語っているところによると、「僕がいうことをきかないし、甘えないしね、だから駄目なんですよ」と断りつつも、血の繋がらない父親から、継子いじめを受けていたという。「木刀を振り回したり蹴っ飛ばしたり」、「今でも眉間に傷があるけれども、どうも酔っ払って来ると、階段から突落としたり、雪の降っている時に表へ放り出されたり」など…
放送作家でタレントの永六輔(1933〜2016)は村松友視によるインタビューの中で、「あの大人気の頃に、代筆だろうと何だろうと、普通芸人さんって伝記を残すじゃないですか、『トニー谷一代記』みたいな。それがないんですよね…(略)…トニーさんって隠さなきゃいけないことがたくさんあった人なのかなって…」とトニーの「過去」について思いを巡らせていた。永が言う「隠さなきゃいけないこと」を自分の意思で「語る」ことと、自分以外の第三者から不本意な形で暴かれ、面白おかしく広められることとは、その本人にとっては、大きく意味が違ってくる。
戦後デビューし大活躍するも、子供を誘拐されたことがきっかけで転落し始める
17歳で家を出てから、さまざまな仕事に就き、そして中国大陸での戦争体験を経て、トニーは昭和26年(1951)にデビューした。それからは時代の波に乗って、舞台や映画やレコードなど、八面六臂の大活躍だった。しかし昭和30年(1955)7月、当時6歳の長男が何者かに誘拐されてしまった。幸い、子どもは無事に戻り、事件そのものは解決したのだが、トニーと一面識もなかった犯人が、犯行の動機のひとつとして、「人を小馬鹿にしたようなトニーの態度が許せなかった」と自白した。それを受けて、本来、被害を受けたトニーは擁護されて当然だったにもかかわらず、ジャーナリストの大宅壮一(1900〜1970)による、「植民地的ないまの日本の中で、最も植民地的な名前と芸を売り物にしている」、「トニーはいつもカツラをつけているというのは、皮肉な意味でなくて象徴的である。カツラは彼のハゲ頭を隠すわけではない。彼の生活そのものまでがカツラをかぶされている」、「あれぐらい、日本の人気者でありながら…(略)…その経歴のヒタおしにかくされている日本人というのも珍しい」などの「トニー叩き」に加え、マスコミ各社から一斉に、彼にとって最も知られたくなかった、子ども時代の詳細な「暴露」が始まったのである。
過去を捨てたトニー谷
事件そのものに加え、取材攻勢、そしてそれらに影響を受けた一般人からのいたずらや嫌がらせに傷ついた一家は東京を離れ、箱根や熱海を転々としていた。そこで『東京新聞』のインタビューに答えたトニーは、「とにかく継父継母にいじめぬかれるし、嫌な戦争があったし、全く昭和20年に(日本に)帰ってくるまでボクの過去には何一ついい思い出がない。だから、過去を忘れたい気持ちから、聞かれてもいいたくなかったし、本名の大谷正太郎という名前も口にするだけでもいやだから、学生時代からペンネームに使っていた谷正を本名と称していたんです」と答えている。
事実、トニーが売れ始めた頃に、トニーの継父がトニーの家を訪問したことがあった。「家庭の事情」を知らなかった妻は、継父を家に上げたのだが、後からそれを知ったトニーは激怒した。そして継父に「『過去のどなた』ともお付合いはしておりません。たとえ近しい方とも。私が有名にならねば尋ねて(原文ママ)もこないのに。重ねて申しあげます。一切お付合いしません。楽屋への訪問、知合いといいふらす件、全部お断りします。私の一家、一身上のことは、自分でやりますから」と手紙を送った。その態度は身内のみならず、南京・上海時代の戦友に対しても同様だったという。
それはトニーが、「私の人生は29から。20年の12月に上海から引揚げて来てから始まったというわけです。それ以前はムダメシ29年」と切り捨てた人生を、自分以外の人間から突きつけられることによって、自分の古傷が痛むのに耐え難かったためだろう。
過去があるから今があるのか 過去を捨てたから今があるのか
このような、葬り去りたい自分の過去や他人の汚点のことを、現在、「黒(くろ)歴史」と言う。「黒歴史」は「誰にでもあること。気にしすぎ」と、「親切な人」は「過去」を「黒歴史」などと「レッテル貼り」することなく、前向きに捉えるように提案するが、当の本人からすると、素直に首肯できることではない。だが皮肉にも、トニーの人生において、自分の中から消し去ってしまいたい「黒歴史」があったからこそ、誰にも成し遂げられなかったことを、ある意味図太く、そしてしたたかに達成することができたとも言える。
ブームとなっている終活とエンディングノート
昨今、日本国内において終活がブームである。その一環として、「エンディングノート」の執筆にも脚光が当たって久しい。ノートには介護、終末医療や臓器提供問題、財産分与、遺品の処理、葬儀やお墓についてなどの現実的な要望のみならず、家族や大切な人へのメッセージや、「自分史」を書くためのページも設けられている。行政書士で遺言相続コンサルタントの本田桂子によると、エンディングノートにおいて、自分自身についてのことを記入する意義として、以下のように述べている。
人生にはさまざまな出来事があり、その結果として、今、その人がいる。とはいえ、まわりの人には、その人のほんの一部分しか見えない。それゆえ、その人の「歴史」は、その人の死とともに消滅してしまう。しかし、日常生活の中ではなかなか伝えられないその人の歴史をその人自身が書き残すことによって、死後、周囲の人々がその人を理解する大きな助けになる。また、その人自身も、改めて自分の人生を振り返ることで、今の自分自身と自分を取り巻く人間関係を客観的に見られるようになり、これからの人生を考える上でも大いに役立つという。
トニー谷なら自身の過去をどのようにエンディングノートに書くだろうか
人には誰しも、傍目には「大したことないよ〜みんなそうだよ〜」であったとしても、他人に知られたくない過去、見せたくない自分がある。ましてトニーのように、自分では選べない、そしてどうしようもできなかった「家庭の事情」をどうすればいいのか。もしも1980年代末期に、「エンディングノート」が当たり前だったとしたら、トニーは何を書き記しただろうか。
肝臓ガンにかかり、もう助からないと自覚していたのか。トニーは病床の中で、妻にひたすら「ありがとう」と語りかけるテープを残していたという。「過去」を振り返るより、「今」しか見ずに、日本の戦後の混乱期を生き延びて一時代を築いたトニーらしく、自身の「黒歴史」を詳細に書き記すことはなかったかもしれないが。
参考文献
■トニー谷「ボクの自叙傳」『りべらる』第8巻 5号 1953年5月(148−152頁)白羊書房
■トニー谷「泣き笑い半生記 トニー谷が30分で語る波瀾バンジョウの半生」『面白倶楽部』第6巻 13号 1953年11月(286−292頁)光文社
■「トニー・谷に忠告する −誘かい事件を機に−」『週刊朝日』1955年7月31日号(3−11頁)朝日新聞社
■「転々移動の逃避行 その後のトニー谷語る」『東京新聞』1955年8月7日(4頁)
■「ハチャメチャ英語を操り一時代を画した江戸っ子・トニー谷さんの真骨頂」『週刊読売』1987年8月2日号 (34頁) 読売新聞社
■村松友視『トニー谷、ざんす』1997年 毎日新聞社
■菊地正憲「よりぬき 芸能界13の「黒い履歴書」:売れっ子芸人トニー谷の運命を変えた『長男誘拐』」『新潮45』2006年1月号(50−52頁)新潮社
■矢野誠一『昭和の藝人千夜一夜』2011年 株式会社文藝春秋
■偉人の謎研究会(編)『偉人たちの黒歴史』2011年 彩図社
■本田桂子『エンディングノートのすすめ』2012年 講談社