神奈川県川崎市では6月15日までに、両の頬に赤い発疹ができる感染症、通称「リンゴ病」こと、「伝染性紅斑(こうはん)」の患者が増えたことから、9年ぶりの流行発生警報を発令した。この感染症は「ヒトパルボウイルスB19」が病原体で、患者は主に就学前後の子どもが多く、最初は風邪のような症状が出る。感染後4〜15日に発疹が出て、咳やくしゃみなどで人から人へと広がっていく。また、成人が感染すると頬の発疹に加え、関節痛や頭痛など、関節炎に似た症状が出るとされている。
疫病は、その正体が明らかになる前までは、一種の呪いや祟りとして信じられていた
今日では「リンゴ病」に限らず、麻疹やインフルエンザ、または病原性大腸菌O157などによる集団食中毒が何故発生するか、そしてそれらの蔓延を、どう阻止すればいいか、などの知識を我々は当たり前に持っている。しかしそれは、ドイツの医師ロベルト・コッヘ(1843〜1919)が1880年代に発見した、病の源こと「病原体」である「細菌」の存在、更に1920年代に発展した、人と病原体とを取り巻く環境・社会・文化を研究する疫学という学問が体系化されてからのことである。それまで長らく人々は、先に挙げたような病の原因を神罰、悪霊、呪い、祟り、またはその人自身の過去の罪の結果…などに求めていたのである。そうした考え方によって、病を「治す」ために、古代においては、政治的かつ宗教的に超絶的な力を持つ支配者による祭祀が行われていたのだ。
疫病が呪いの一種であると考えられていた最古の資料は古事記、日本書紀
例えば日本においては、古くは『古事記』と『日本書紀』の中で、第10代天皇の崇神(すじん)天皇(紀元前148〜紀元29年?)の治世において国中に疫病が流行り、多くの民が死んだ。そこで天皇は祭祀を行い、疫病蔓延を阻止したという記述がある。『古事記』によると、その際天皇は斎戒沐浴し、神意を問うた。ある夜の夢に、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が現れ、「この病は自分の祟りである。意富多多泥古(おおたたねこ)という者に私の霊を祭らせたならば、祟りは止んで、国は安らかになるだろう」と告げた。その夢を受けた天皇は、諸国に人を遣わした。すると河内国の美努村(みのむら。現・大阪府八尾市上之町南付近か)で意富多多泥古が見つかり、天皇の御前に出されることになった。驚くべきことに、意富多多泥古は大物主大神の末裔だった。天皇は大変喜び、「これで天下は安らかになり、人民も増え、栄えるだろう」と言い、意富多多泥古を神主として、三輪山(みわやま。現・奈良県桜井市)で大物主大神を祀る祭祀を行わせた。そればかりではなく、伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)に御神饌を盛る土器を多く作らせ、仕え祀るべき天(あま)つ神、国(くに)つ神の社(やしろ)をはっきり定めて、手厚くお祀りした。更に東方の宇陀(うだ。現・奈良県宇陀市)の墨坂神(すみさかのかみ)に赤い色の楯と矛を、西方の大坂神(おおさかのかみ、現・奈良県香芝市逢坂付近か)には黒い色の楯と矛をさし上げて祀った。また、山の上や川瀬の神々全てに、御幣を差し上げた。これらの祭祀によって疫病は鎮まり、国は平らかになったという。
密経塚で眠る人たちは、疫病が原因で亡くなったとされていた
時代が下って、「神」の存在が「定義」され、それを祀る「儀式」、祀る人々に関する種々の細則が定められるなど、宗教そのものが組織化・洗練されてくると、何らかの理由で外部から侵入、または人に憑依した「病」を高位の宗教者による「悪」「魔」「邪気」…のお祓いや、地域共同体総出で行う祈祷やまじないによって祓い清めたり、或いは神に自身の罪の許しを乞うて、加護を求めるようになった。
例えば、神奈川県横浜市旭区東希望が丘169に鎮座する春ノ木神明社の境内には、「密経塚(みっきょうづか)」と呼ばれる、疫病にまつわる塚がある。
江戸時代中期に、武州都筑郡の二俣川村・武州都岡村の下川井村・相州鎌倉郡中川村阿久和の3村が接する、現在の神奈川県道40号・横浜厚木線の三ツ境(みつきょう。現在の横浜市瀬谷区と旭区東希望が丘238付近)、神明社の東側の底地で、疫病が流行った。その時、春ノ木(はるのき)神明社の別当(べっとう。神仏習合が当たり前だったかつての日本において、神社の管理・祭礼を執り行った寺の僧)だった長楽寺(ちょうらくじ)の僧の教えに従い、村人たちは自身の家を焼き、更に貴重品を含む家財道具や衣類などを神明社の境内に持ち寄って、僧の読経のうちに経文と共に焼却した。その後、村人たちは近在の新しい土地に移り住んだ。そして残った灰を3箇所に分散して埋め、塚をつくった。それらが後に「密経塚」と呼ばれるようになった。今となっては判然としないが、昔の「三ツ境」のあたりは「密経」と呼ばれていたというが、「三ツ境」の「塚」だったのが「密経」と時を経て変化した可能性もある。
一方で、密経塚には財宝が眠るとも言い伝えられていた
また、別の言い伝えでは、疫病とは全く関係のない話だが、鎌倉時代にひとりの法師が密経を背負い、この地に至った。そして密かに経文を地中深く埋めて、そのまま立ち去って行った。その場所は不明だが、法師は経文だけではなく、財宝も埋めたと伝えられていた。
その後、春ノ木神明社周辺で「朝日さし夕日輝く丘の上 黄金(こがね)千杯(せんばい) 朱(しゅ)千杯(せんばい)」と詠んだ歌が伝わる中で、いつしか近在の人々は塚の下に財宝が埋まっていると信じるようになっていった。明治のはじめ、そして1962(昭和37)年に塚の周囲が掘り起こされたが、大ざる3杯ほどの灰が出土しただけだったという。現在もなお残っているのが、神明社境内のタブノキの下の、右側の青面金剛庚申塔、左側の庚申塔の間に挟まれた、小さなものだけだ。この「密経塚」には、「天和元年 春の木」と刻まれており、疫病の流行時期は天和(1681)〜正徳(1712)の間だと考えられている。
「財宝が眠る」なんてことが言い伝えられていった理由とは
そもそも「経塚」とは、経典を地中に埋納して築いた塚で、平安時代に始められた作善(さぜん。仏縁を結ぶための善事)行為のひとつだった。経典は主に『法華経』だった。また、埋められたのは紙のお経のみならず、銅板や瓦に刻まれたものもあった。埋納した場所は、著名な寺社境内や霊地・霊山だった。特に平安時代後期は末法思想が蔓延し、富裕な貴族たちがお経そのものだけではなく、贅沢なつくりの経筒(きょうづつ。経典を収める器)や副葬品の仏像・仏具・鏡なども埋めていた。それが13世紀に廃れた後、14〜16世紀には、六十六部聖(ろくじゅうろくぶひじり)など、回国僧の納経が始まり、諸国の霊場に小型の経筒を奉納するようになった。それに伴い、一般の村人たちも共同で簡便な経塚をつくるようになっていった。更に江戸時代に入ると、小さな石に「法華経」の文字だけを刻んで埋納する「一石経」が多勢を占め、寺院の境内や村境・街道に面して築かれていた。
かつての平安貴族たちがつくったような、大型で碑文が刻まれた石塔を伴うものとは相反する経塚の「庶民化」「簡便化」が後々、何の目的で、いつつくられたのかが判然としないものが全国各地に存続し続けることとなった。その結果、「後づけ」で塚にまつわるいわれが地域に広がり、それらも併せて継承されていくことになってしまった。
もちろん、必ずしも「後づけ」とは判じがたい話もある。例えば、全国各地に多く見られる伝承だが、「実は名のある高僧である旅の僧が、たまたま訪れた村で害をなす怪異のものを調伏するために、ここに経典を埋めた」というものだ。これは、横浜市旭区の「密経塚」に伝わるものと類似の伝承と言えるだろう。
最後に…
現代の「清潔」な日本においては、「伝染病」がかつてのような、天罰・神罰・祟り…とみなされることはまずないだろう。だが、いくら医療が進み、「伝染病」そのものに対する「正しい常識」を多くの人々が有しているといっても、あるとき日本国内のどこかで「新型ウイルス」の出現・流行が報じられると、やはり我々は「怖い!」「うつったらどうしよう…」「死にたくない!」と過敏に反応してしまう。それは「細菌」「防疫学」そのものを知らなかった人々と同様の怯えである。否、昨今のネット社会であれば、昔は狭い村落共同体の中だけで済んでいた恐怖心の蔓延が、全世界にある意味無責任に拡散されてしまうのだ。中には面白半分で、人々の恐怖を煽るデマを発信する人もいるかもしれない。
そんな「今」だからこそ、逆に我々は「原点」に立ち返り、「伝染病」を恐れずにはいられない自分の気持ちを認めつつも、ただ「情報取得」ばかりに執心するのではなく、横浜市旭区の「密経塚」を築き、それを現在まで守り続けてきた人々の真摯な信仰心を思い起こすべきなのではないだろうか。
参考文献・サイト
■旭区郷土史刊行委員会(編・刊行)『旭区郷土史』1979年
■大菊一太郎『あさひ区内散見』1984年 旭区役所区民相談室
■新村拓「病い」石川弘義・津金澤聰廣・有本賢・佐藤健二・島崎征介・薗田碩哉・鷹橋信夫・田村穣生・寺出浩司・吉見俊哉(編)『大衆文化事典』1991年(801−802頁)弘文堂
■坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋(校注)『日本書紀 一』1994年 岩波書店
■米田実「経塚」福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄(編)『日本民俗大辞典 上』1999年(490頁)吉川弘文館
■梅原猛『古事記 増補新版』1980/2012年 学研パブリッシング
■「川崎市がリンゴ病流行警報 9年ぶり発令」2018年6月16日