19世紀のヴィクトリア朝イギリスは「イギリス人の家庭は城である(An Englishman’s house is his castle.)」という格言通り、家庭の団欒が重要視されていた時代だった。イギリスといえば紅茶が有名だが、フランスの文芸評論家のイポリット・テーヌは『イングランド覚書』(1872)の中で、「イギリス人にとっての幸福な家庭とは、夕方6時に帰宅し、貞淑なる妻にお茶を入れてもらい、膝の上にはい上がる4、5人の子どもたちに囲まれ、うやうやしく使用人にかしずかれる状況である」と書き記している。当時のイギリスにおいては、紅茶を飲むことそのものが家庭の幸福と結びついていたことがわかる記述である。
当時のイギリスを支えた倫理観とは
こうした社会のありようは当時、プロテスタンティズムの一派である福音主義運動が国内で、主に、政治的・経済的・社会的な発言権を強めていた中産階級の人々を中心に広がっていたのが最大の理由である。福音主義とは、貴族階級の不品行や放埓さを批判しつつ、貞節と節制を女性に求め、信仰と道徳の源として、家庭を神聖視するものだった。従来のキリスト教の価値観では、女性は蛇の誘惑に負けた罪深いイヴの子孫だとみなされていた。それゆえ、夫への服従や出産の苦しみは、女性が持つ、生まれながらの罪(原罪)に対する罰と捉えられていた。しかし福音主義では、女性を男性よりも道徳的で信心深い性だと規定した。とはいえその内実は、女性の根底には本来の放縦な側面が残っているため、徹底して我意を捨てて自己犠牲的に夫に服従することで、それを抑え込む必要がある。そのような女性が男性に守られ、家庭の中で男性の「内助者」として働く態度は、信仰や道徳の源泉となる。家庭の外でも、貧しい人々や病人のために働くことも、救いに至る手段であると説かれていた。また、当時の中産階級家庭の年収はおよそ150〜1000ポンドだった。そして最低150ポンドで、下働きの少女1人を雇うことができたという。
当時のイギリスで良しとされていた女性・妻・女主人としてのあるべき姿とは
そのようなイギリスにおいては、中産階級の女性向けのマナーブックや啓蒙書が多数出版され、広く読まれていた。それは料理や裁縫、そして子どものしつけなど、家庭生活に関するものばかりではなく、使用人に巧みな指示を与えつつ、家を訪れる客をもてなす「女主人」としての役割について説かれたものもあった。社会において、妻、そして母たる主婦は、家事全般にまじめに取り組み、子育てに熱心であるばかりでなく、家庭をまとめる「司令官」としての役割、そして来客を楽しませる「社交力」を持ち、「上質のもてなし」ができることが求められていたこと。そして「そうありたい」と思い、努力を重ねる女性が大勢を占めていたことを意味している。
また男性の側も、ただひたすら出世や成功ばかりを追い求めるのではなく、自分を支えてくれる有能な主婦がいる家庭を持つことこそが、男性の成功の原動力であると捉えていた。それは、悪弊に満ちた上流階級からも、その日暮らしの無軌道な下層階級からも自身を切り離し、健全な家庭に価値を置く道徳的な階級としての中産階級に属しているという、強い階級意識に裏付けられたものだった。
そんなイギリスの当時の葬儀事情とは?
このような19世紀のイギリスにおいては、家族との永遠の別れである死と、そのセレモニーはどのように執り行われていたのだろうか。
ヴィクトリア朝イギリスの人々に限らず、葬儀は大切な社会的行事だ。しかし当時の人々は、その家族の社会的地位に対して礼節を尽くし、正統な敬意を表すために、正しいやり方で執り行われなければならないと考えていた。そのため、儀式そのもの、喪に服する期間、衣類など、細かい規則が設けられ、人々は忠実にそれを守っていたのである。
それを率先して行っていたのが、ヴィクトリア女王だった。女王は1861年に夫・アルバート公を喪って、1901年に自身が亡くなるまで、女王らしい豪奢な服を着ることはなく、喪服で過ごしたという。それを見習う格好で、夫を喪った未亡人は、服喪期間の2年間は、光沢のない黒い生地でつくられた「寡婦服」を着、宝石類は、炭の一種であるジェット以外、身につけることができなかった。喪が明けてからは、黒や縦縞の「半喪服」に着替えてもよかったが、ヴィクトリア女王のように、生涯喪服を着続ける女性も少なくなかった。
葬儀自体に様々な取り決めがなされていた
また、葬儀そのものにも決まりがあった。それは17世紀末から、旧来の棺屋・馬車手配師・室内装飾業者など、個々の業者によって行われていた葬儀を一括して執り行う「葬儀屋」というビジネスが始まり、19世紀に大いに発展したことも大きい。それは、王立法人の紋章学院によって、1484年に行われたという葬儀をモデルとした、棺や棺にかける布の種類や大きさ、忌中の折に掲示する紋章、そして葬儀の際の行列など、貴族階級が行なっていた、厳粛かつ壮麗な葬送儀礼のやり方を、中産階級が模倣するようになったためである。彼らにとって、自らを支えるアイデンティティである大事な「家族」を喪った悲しみを世間に広く示すために、「立派な葬式」を出すことは、皮肉にも、富裕な貴族階級の「悪弊」とされた、「富」の公開提示の役割をも果たすことになったのである。
葬儀自体にもランクが付けられていた。各ランクの内訳とは?
そのような葬儀のやり方には「ランク」がつけられていた。中産階級では1回の葬儀に大体、50〜150ポンドの金をかけていたという。ロンドンなどの都会での葬式においては、第1ランクが121ポンド5シリング、第2ランクが62ポンド11シリング、第3ランクが20ポンド11シリング6ペンス必要だった。
第3ランクの内訳は、覆いのある棺・名前・亡くなった年月日などを刻む板・マットレス・シーツ・まくら・掛け布、2人のポーターのガウンと帯と手袋・4人の紳士の着用するコートとクレープのバンドと手袋・墓地への付き添い・馬車と御者・御者の服装・墓石・墓掘人への手当・10人分の人件費だ。そして第1ランクになると、楡の木の棺・ひだ付きマットレス・シーツ・まくら・鉛の棺・名前や亡くなった年月日などを刻むプレート・外カバー・ケース・真鍮の棺と記載事項を刻むプレート・掛け布・ポーターのスカーフと帯と手袋・板・カバー・4人の紳士が使用するクレープのスカーフと帯と手袋・17枚の絹の帯・霊柩車・4頭の馬・馬にかけるベルベットの覆い・5人の御者への手当・御者の帯とコートと手袋・杖・付添人への手当・付添人用のスカーフと帯と手袋・教会の使用人への手当・墓掘人への手当・牧師へのお礼・墓の使用料・手紙が含まれる。
しかも「儀式」という「外側」のみならず、葬られる遺体そのものも、決して傷つけられずに、生前の姿により近い、なおかつ「美しい」形で葬られなければならないと考えられていた。そのため、遺体には様々な「防腐」「加工」処理が施されていた。
最後に…
以上のようなヴィクトリア朝イギリスの葬儀のありようを、現代の我々が奇矯に感じてしまうことは無理からぬことだ。しかし今なお、先祖代々、または地域で昔から行われている「やり方」でなくては、「世間体が悪い」「死んだ者が成仏できない」と信じられていることから、不承不承ながらも、それを踏襲している人々も少なくない。いくら故人が生前に「新しいやり方」で葬儀を出すように言い残し、そしてそのように執り行われたとしても、残された「周りの人たち」が、それに着いていけず、心のわだかまりを抱いてしまうことも往々にしてある。ただ言えるのは、どのような形の葬儀であっても、大勢の人が居並び、亡くなった人を悼む葬儀というセレモニーは、悲しみのみならず、葬儀がなければなかなか会うことができなかった人と、思いがけず再会してしまう機会でもある。亡くなった人にまつわる、様々な昔話に花が咲いて、カタルシスを感じることも少なくない。葬儀の帰り道で、亡くなった人と交流した過去を思い出しながら、自分の今の「生」を自問自答させられたりもする。
それゆえ、どのような「形」であれ、亡くなった人を丁重にお送りするばかりではなく、大事な人の「死」をどう自分の中で位置づけ、自分が「生まれ変わる」のかを問い直すためにも、葬儀という儀式そのもの、そしてそれへの参加は、極めて重要なものであると言える。
参考文献
19世紀のロンドンはどんな匂いがしたのだろう、 新版 世界各国史11:イギリス史、 イギリス近現代女性史研究入門、 大英帝国という経験 (興亡の世界史)、 近代イギリスの歴史 16世紀から現代まで、 大阪人間科学大学紀要、 暮らしのイギリス史―王侯から庶民まで、 欲ばりな女たち―近現代イギリス女性史論集