幸せの象徴として知られる『青い鳥』。これは1908年にモーリス・メーテルリンクが書いた戯曲です。貧しい木こりの子のチルチルとミチルが、クリスマスの夜に隣の家の娘さん(魔女の娘?)の病気を治すため青い鳥を求めて色々な国をたずねるお話です。
青い鳥とはどんな話?
まず二人が最初に訪れたのは『想い出の国』でした。そこには死んだはずのおじいさんとおばあさんが眠っていて、二人がやってくると目を覚まします。喜んだ二人はおじいさん、おばあさんと昔を懐かしみます。すると思い出すたびに死んだ兄弟や飼い犬までやってきます。そしてそこには青い鳥がいたのです!喜んだ二人はもらって帰るのですが…。
この時おじいさんは二人に『人は死んでもみんなが心の中で思い出してくれたなら、いつでも会うことができる』と言って聞かせます。その言葉が私にとって、実はとても大切な心の支えの一つになっているのです。
その人との思い出
昔々の高校時代、私は出来の悪い生徒でした。業を煮やした英語の先生は私の母を呼びつけ家庭教師をつけるように言いました。そのころの一般家庭で家庭教師をつけるなんてとても考えられないことです。困った母はその先生に相談するしかありませんでした。先生は「自分の友人で家庭教師をしてくれる人がいるが、彼女は不真面目な生徒は嫌がるので…」と渋りながらも紹介して下さった、それが『池袋の先生』と私が呼んでいる方です。
先生はもうおばあさんで、池袋駅に程近い小さなアパートに一人で住んでいらっしゃいました。1階が大工さんの作業場で2階には他にも部屋がいくつかあったようですが、階段のとっつきが先生の部屋でした。それから毎週私はその小さな部屋に通いだしました。簡素な部屋で何もありませんでしたが、高価そうな洋書がぎっしり詰まった本箱が印象的でした。勉強を教わりながら、出来の悪い生徒らしく私は先生にいつもぶつぶつこぼしていました。「落第したらどうしよう。大学に落ちたらどうしよう」そう聞くと、先生はいつもニコニコ笑ってちょっと訛のある声で「大丈夫、大丈夫」と言ってくれます。それを聞くと不思議に少し安心しました。
遅れてやってきた訃報
数年後、高校の先生から電話がありました。池袋の先生が亡くなったというのです。放火による火事での焼死とのことでした。その途端、おがくずだらけだった1階の作業所が思い出され、胸がズキッと痛みました。もうお葬式も終ったと聞き、お手紙を書きたいからと無理を言って先生の息子さんのご住所を伺いました。
当時私は仕事に就き、日曜日もないような忙しさでした。時間が空いたある日、ご連絡もせずにそのお宅を訪ねにいきました。多分私はもう一度先生にお目にかかりたかったのだと思います。案の定、お宅はお留守で待ってもお帰りになる様子もありません。持参したものとメモを玄関先に置き、しおしおと帰宅しました。最後のお別れもお礼も言えなかった申し訳なさで、胸の中はうつろでした。あの時、きちんとご遺族と連絡を取り、お線香の一本も上げていればあれほど切ない別れをしなくても済んだのにと今では思います。若気の至りでした。
心の中に存在するあの人
それなのに今も辛いことがあると私は先生のことを思い出します。先生は以前のようにニコニコして、あの訛のある声が「大丈夫、大丈夫」と聞こえてきます。すると私はちょっぴり勇気が湧いてくるのです。
とてもかわいがってくれたのにもうこの世にいない人。つらい時、話したいのにもう口を利くことはできない…。でも私たちが思い出すだけで、あちらの世界で目を覚まし会うことができる。私は今もそう信じ、安らぎの一つになっています。『青い鳥』は今も必ず想い出の国に、眠りながらいるのです。