説話集や要人の日記など、中世日本の様々な書物には、他の時代では余り語られない、また実話か作り話なのかも不明な不思議な出来事が、時々記録されている。そうした出来事の中には、葬儀文化的に見ても興味深い事件が、幾つかある。
鳴動=ポルターガイスト
それは、「墓(特に政権のトップや名家の祖など、過去の偉大な人物の墓)が、地震でないにも関わらずひとりでに音を立て、揺れ動いたこと(以下、「鳴動」)」である。
なお、墓の他にも、寺院や神社、神仏や一族の祖の像、一族の祖が着用したとされる甲冑や武具などが鳴動したという話も、複数伝わっている。また、そうした鳴動が記録された墓や神社仏閣から、謎の光や火の玉が飛び出して遠くに飛んでいったという記録もある。
つまり、当時の政権や社会にとっての権威の拠り所であったり、更には信仰の対象であったりしたものや場所が、鳴動したと記録されたわけである。なお、この鳴動は、いわゆる「ポルターガイスト」現象の一種だという説もある。
鳴動があったと信じられていた
勿論、実際に鳴動、その他の不思議な現象が起こったのかどうかは、証明しようがなく、また鳴動があったとしても、実際には、地震のために揺れ動き、音を立てたに過ぎないケースも、ないとはいえない。そのため、「実際に鳴動があったかどうか」ではなく、鳴動があったと「信じられたこと」が、この鳴動についての話では重要になる。
先述のように、中世日本で鳴動があったと信じられたのは、基本的に、当時の政権や社会にとって「尊いもの」であった。その中でも、過去の偉大な人物の墓が鳴動したという記録は、葬儀文化的に見ても大変興味深い。
平安時代の前半にもあった
往時の要人の墓も含めて、そうした「尊いもの」はなぜ、どのような場合に鳴動すると信じられたのか。
多くの場合、政権や社会全体にとって、肯定的・否定的を問わず、大きな事件や変化が訪れることを伝えるため、それらの「尊いもの」は鳴動するのだと信じられた。特に、要人の墓の鳴動は、墓の主の子孫や社会に、何らかの警告を発していると信じられることが多く、しばしば、子孫がお家存亡の危機に直面していることのお告げだとされた。
古くは、平安時代の前半に既に、古代の伝説上の皇后「神功皇后」の墓と信じられていた古墳に、鳴動があったとする記録がある。ただこれは、朝廷や社会の危機のお告げではなく、被葬者の取り違えを訴えたものとされた。
豊臣秀吉のお墓も鳴動した?!
また平安時代の末には、藤原氏の祖中臣鎌足の墓が鳴動したという記録も出てくる。この頃から、過去の要人の墓の鳴動は、墓の主の子孫がお家存亡の危機に直面していることのお告げだとする考え方が、強まってくる。この、墓の鳴動をお家存亡の危機のお告げとする信仰の発生は、武家の台頭や源平合戦など、社会の大幅な変化と関係が強いと考えられる。
この種の鳴動が記録されているような墓の主で、最も新しい時代の人物の一人が、豊臣秀吉であった。秀吉が亡くなった翌年の1599年、彼の墓が鳴動したという記録が、江戸時代前期の『本朝通鑑』にある。この鳴動の、更に翌年である1600年には関ヶ原の戦いが起こり、1615年には大坂夏の陣で豊臣政権が滅ぼされた。このことも人々に、秀吉の墓の鳴動は、豊臣政権の危機を告げるものだったと信じさせたことだろう。
最後に…
往時の要人の墓が鳴動したと信じられたり、そうした鳴動はしばしば子孫や社会に警告を発するものだと信じられたりした日本の中世は、死者の魂が時々この世に戻り、墓に一時的に滞在するという信仰が芽生えた時代でもある。この信仰は、中世末〜近世に発展し、更に近世末〜近現代には、死者の魂は、遺体(遺骨)や墓に常駐するという信仰につながっていった。
ただ、死者の魂が墓に滞在するとする信仰が発展した近世以降は、こうした墓の鳴動の記録は、大幅に少なくなる。「墓の鳴動」と、「死者の魂のゆくえ」に関する考え方の変化とは、必ずしも一致していないといえよう。
参考文献:鳴動する中世 怪音と地鳴りの日本史