「安田興行社、山本丑松様の告別式を行います」ーー葬儀会場には、吉本興業社、そして桂米朝から送られた、大きな花輪が飾られている…。
ドキュメンタリー映画、『見世物小屋 旅の芸人・人間ポンプ一座』(1997年)のオープニングだ。
人間ポンプ・安田里美を撮った映画 『見世物小屋 旅の芸人・人間ポンプ一座』
映画は、平成7年11月26日に、肝臓ガンのため、72歳で亡くなった、「テレビでおなじみの驚異の胃袋・人間ポンプ」の芸を60年近く、日本全国の寺社の祭礼の折、境内や参道脇などに臨時に設営される見世物小屋で演じ続けた安田里美を追いかけたものである。
一座の中で、客を呼び込む巧みなタンカ芸を担当していた安田の妻・春子が、棺の中で花に包まれている安田に声をかける。
「今まで止めとったんだから、しっかり飲んで行ってや。ご苦労さんでした。ご苦労さんでしたねぇ。ポンプの衣装は?入れた?ほら、河内音頭のカラオケあるから、しっかり歌いや。向こうで歌いや。な、ほれ、歌って」と最後の方は涙声になる…。
安田は大正12年、大阪・富田林の鍛冶屋の家に生まれた。先天的に体のメラニン色素が欠乏しているアルビノだったことから、4歳のときに、岐阜の興行師・安田与七にもらわれることとなる。安田の初舞台は、「ケッカイ(道化猿)」と呼ばれる見世物小屋だった。小屋の木戸口で「安田のオヤジ(与七)」が、毛布にくるんだ幼い安田を抱いて、「人間の子どものように見えるが、実は舌が2枚あって、体に毛がいっぱい生えた…」と、客を呼び込んでいたのだ。
長じてからの安田は、両目の視力を失ってしまっていたが、そのハンディキャップを全く感じさせない旺盛な体力、明るく巧みな様々な芸を、死の1ヶ月前まで見せ続けていた。
何でも飲み込んだ安田亡き今、その芸のタネは永遠の謎
映画では、埼玉・秩父夜祭での一座の2日間に密着し、安田の芸を中心とする見世物小屋の様子を紹介している。安田は鼻でハーモニカを吹くところから始まり、鼻に針金を通して動かす。碁石や50円玉、金魚、安全カミソリやナイフを飲み込んで、客が言うままに自由自在に吐き出す。折った半紙で水が満杯のバケツを持ち上げる気合術(重たいものを持ち上げたり、瓦を割ったりするもの)を行う。そして最後に、ガソリンを飲み、盛大に火を吹いて見せた。これらの「芸」が「人間ポンプ」と呼ばれているのは、火事の際に火を消す「消火ポンプ」の「ポンプ」が由来だという。
何でも飲み込んで見せ、客に言われるままに取り出して見せることができるのは、実は何かタネがあるのではないかという疑念がよぎる。安田は、白黒の碁石を飲み込み、それを選り分けて吐き出す芸を行うときには、腹の中に白黒の碁石を「分散して入れている」らしい。しかしそれは、長年の鍛錬を重ねてきた安田にしかできないことである。安田は芸の練習をするとき、一座の人々が寝静まってから、ひとりで行っていた。実際に胃袋の奥深くに異物を飲み込んでしまったら、即座に吐き出すことは不可能だ。それゆえ、何らかの「仕掛け」があったことは間違いない。しかし安田には、客の目をごまかし、だましてやろう、といった悪意や姑息さは全くない。虚実のはざまを巧みに行き来しながら、安田は芸を演じ続けていたのだ。荼毘に付され、安田の「驚異の人体」そのものがこの世からなくなってしまっている今となっては、どうやってできていたのか…永遠の謎である。
人間ポンプ以外にも多芸だった安田里美
そんな安田の「持ち芸」は、人間ポンプや気合術ばかりではない。漫才・浪曲・手品・サーカス・旅芝居・見世物タンカ(入り口での呼び込み口上の芸)・のぞきからくり節・地獄極楽のタンカ・河内音頭・太鼓・物真似・楽器など、多岐に渡っていた。
「人が死んだら7日目に、落ち行く先は六道の辻。娑婆から落ちくる亡者めが、左にゆくなら地獄かや、右にゆくなら極楽だと。迷いに迷うておるならば、葬頭(そうづ)河原のお婆さん、柳の根方に腰を下ろし、極楽に行く道はこちらなるぞ…」。
映画は、安田による「地獄極楽のタンカ」で締めくくられる。
ちなみに「地獄極楽」の見世物とは、「十界(じっかい。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界の六道と声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の四聖)」とも呼ばれ、明治時代にさかんに催された。それは、曲芸や珍奇な人・動物・物を見せる、ある意味「娯楽」「おふざけ」「キワモノ」とされていた「見世物」とは様相が異なる。ゼンマイ仕掛けのからくり人形や、生きた人間そっくりの「生人形(いきにんぎょう)」を配置し、地獄極楽の様子をパノラマ風に見せるものだ。
その中には地獄極楽を表現した見世物もあった
例えば、明治15年8月6日付の「岐阜日日新聞」は、岐阜・末広町の末広座で「自獄(じごく)独楽(どくらく)知恵の八重垣」と銘打った見世物が行われたことを報じていた。「自獄」は「地獄」、「独楽」は「極楽」と掛け、「八重垣」は迷路を意味していた。この見世物では、入口が6箇所あり、その中のひとつが「独楽」に通じており、その道を進んだ者には日傘・団扇・提灯などの景品がもらえた。しかし他の5本の道は「自獄」に通じており、景品はおろか、鬼などの飾り物がある恐ろしい道を通らねばならなかったという。
また、明治〜昭和の東京・京橋に住んでいた実業家で政治家の藤浦富太郎は、具足町(ぐそくちょう。現・京橋3丁目近辺)の清正公(せいしょうこう)の縁日で、「地獄極楽」の見世物を見たことを書き残している。彼によるとその見世物は、他のものよりも小規模だった。そして入口から出口まで、人の死後、葬式に始まり、1度地獄に落ち、三途の川で奪衣婆(だつえば)に着物をはがされ、閻魔庁へ出頭するところ、そして地獄行と極楽行が分けられた後、極楽に行く者は白雲に乗り、地獄へ落ちた者は鬼に導かれて苦役をさせられているところなどの情景を描いた泥絵の具の絵が、何枚も掲げてあった。それらの絵を、お坊さんに扮した60代ぐらいの興行主が説明していたという。
凝った見世物小屋では、藤浦が見たもののように、単に絵を並べているばかりではなく、人形の赤鬼青鬼、閻魔、亡者などがゼンマイ仕掛けで動いたり、カンカン鉦を鳴らしたりして、場の雰囲気を盛り上げていた。そして内部で説明する者も、竹の笞で箱を叩きながら、説経節を思わせる巧みな話芸を見せていた。
安田の一座がおこなった地獄極楽とは?
「地獄極楽のタンカを静かァに聞くと、ええタンカだよ。ほらァええタンカよ」と懐かしむ安田によると、安田が「地獄極楽」の見世物に関わったのは、6〜7歳の頃だった。幼い安田は、客を呼び込むため、小屋の表に置いてある鬼の人形を上下させる、裏方の仕事をしていた。一座が「地獄極楽」の興行を打つことになったのは、大阪の「二見さん」という興行師がやっていた「地獄極楽」の見世物の一切合切を、「安田のオヤジ」が買い受けて行うことになったためだった。「二見さん」が「地獄極楽」の見世物を譲る際、しきたりなのか、ゲン担ぎなのか、「年(ねん)を切ってやらんといかんよ(やらなくちゃ駄目だ)」と言っていたことから、興行は3年間しか行われなかった。当時一座にいた70代ぐらいの「クニさん」がいつも、巡業先でお寺参りをしていたことから、安田は「クニさん」について行き、お寺の和尚さんにいろいろな話を聞いていた。そこで聞いた話を拾い上げ、安田は自らの持ち芸、「地獄極楽」のタンカ芸に取り入れたという。しかも、「誰にでもできるネタと違う」「でたらめを入れるちゅうことがでけないから」と、安田は実に真摯に芸を磨いたのだ。
安田の一座が行った「地獄極楽」の見世物では、羽子板のような押し絵の大きな人形が機械仕掛けで動く。しかも人形の目の中に小さな豆電球がはめ込まれており、暗闇でも「パアッと」光ってきれいだった。そして奥でレコードをかけ、賽の河原で子どもが「あァん、あァん、かかさまァ」という泣き声が聞こえてくる工夫もしていた。しかも小屋の中の「地獄極楽」のしつらえは、幅3尺(約90cm)の台が12台、合計6間(約10m)と、実に広いものだった。また、出口近くに設けられた「極楽」では、水を実際に流し、その上には、阿弥陀様、お釈迦様、極楽鳥、そして大勢の亡者が乗った大きな極楽浄土の船が浮かべられていたという。
こうした「地獄極楽」の見世物は、普通の見世物がお祭りの前夜祭、当日と大体2〜3日で終わるところを、3日4日と延々続いた。特に東京や大阪などの大都会では、「地獄極楽」を見た人がまた別の人にそれを教え、口コミで多くの人が押しかけたためだった。
3年が過ぎた後、旅から旅への一座であったためか、安田曰く、「十界の荷物は、その後どこへ行ったかわからんのや」とのことだった。
きっとあの世でも芸人であるに違いない安田里美
人が「死ぬ」ということは、その人の「存在」が消えることであることは言うまでもない。しかもそれは、その人が発散する汗や体臭、その人が「なす」「なした」こと全て、その人が持つ唯一無二の「オーラ」「気」、更には、その人が生きた「時代の空気」さえも消し去ってしまう。安田が亡くなってから21年も経過してしまっていること、そしてその喪失とは関係なく、月日は淡々と流れ去り続けることに対し、筆者は無性に寂しさを感じずにはいられない。
しかし安田は今も、天国と地獄の真ん前で、延々と落ちてくる死者たちに向かって、中に足を踏み入れたくてたまらなくなるタンカ芸を行い、恐る恐る、そして興味津々で死後の世界に足を踏み入れた死者たちの前で、巧みな「人間ポンプ」芸を見せ続けているように錯覚させられる。楽しく、そしてどこか悲しい余韻が残る、ドキュメンタリー映画だった。
最後に…
見世物小屋、そしてその中で芸を見せる芸人たちも、「現実」とは異なる「虚」を演出していることは言うまでもない。しかし「虚」は決して、空しく無意味なものではない。「現実」を超え、時に「現実」以上に「現実」を提示する。しかもそれはじっと滞留することなく、儚く、あっけなく、残酷なほどの素早さで消え去ってしまう。
不気味で「時代遅れ」な見世物小屋、そして安田の芸を継承している芸人は誰もいない。全国津々浦々、祭礼を目指して旅を続け、ほんの数日間、見世物小屋で芸を見せていた芸人たちの多くは、安田のように、社会的・経済的に辺境に追いやられがちであった身体障害者が少なくなかった。それゆえ、「見る側」の人間たちによって、彼らに対する差別や偏見が絶えずつきまとってもいた。
今日のように、人権問題、社会福祉の必要性が世の中全体に浸透していた時代ではなかったため、ぐずる子どもに対して、「言うことを聞かなかったら、サーカスに売り飛ばすよ!」と叱りつける親が多くいたことも否定できない。それゆえ現代では、そのような暗鬱さを帯びた「場所」は払拭され、ひたすら明るく楽しい「アミューズメント」が当たり前のものになってしまった。しかし安田が生き生きと「生きる」ことができたかつての日本、そして失われた「昭和」という時代が持つ大きさ、清濁併せ吞む底知れなさに、ただただ筆者は圧倒されるばかりである。
参考文献
サーカスの歴史 見世物小屋から近代サーカスへ、 明治の宵 円朝・菊五郎・大根河岸、 見世物小屋の文化誌、 見世物稼業 −安田里美一代記、 江戸の見世物