特に近畿地方を中心とした地域に残る、安土桃山時代の幾つかの城の石垣の中には、古い墓石や石仏・石碑などを石材として使ったものがみられる。石材とされた墓石・石仏・石碑などを「転用石」と呼ぶ。
こうした風習の理由として、俗に「敵方の墓石を没収したことの誇示」説がよくいわれる。つまり、敵方の死者を侮辱する意味があったのではないか、というイメージが強いわけである。
死者への敬意が強いと言われている日本人
しかし実際には、圧倒的に自領にあったものが多いそうだ。むしろ墓石などの“霊力を持つとされる石”ゆえの呪術的な力を集結させ、自分の側の守り神とする意味で行われた可能性が高いのではないか、というのが最近の研究による知見である。ところが、そうしたことを知っても、この「墓石が他の用途に転用されたこと」自体に嫌悪感を持つ方は、日本では案外多い。
「日本人は他の民族に比べ、死者への敬意が強い。そのため、例え敵方の死者であっても、墓所や遺体・遺骨を冒涜するようなことはなかった」と信じたい方が、一定数いるからだろう。敵方の墓石を没収したことの誇示ではないか、という俗説がなかなか消えないのは、一つには、いわばその思いの裏返しだからである。
しかしそんな日本でも死者への冒涜は歴史上存在した
しかしながら、本当に「日本人は他の民族より死者を敬う心が強いため、歴史的に、敵対者であっても、墓所や遺体や遺骨を冒涜しなかった」といい切れるのだろうか。結論からいうと、日本人が他の民族より死者を敬うとか、敵対者の墓所や遺体への冒涜はなかったとはいえない。事実、ある勢力が、政治的に敵対する相手の墓所などを冒涜した例は、日本史の中にも確かにあった。
例えば、鎌倉時代に、いわゆる念仏宗が天台宗勢力と朝廷によって弾圧された時期があった。その際にも、念仏宗の有力な指導者であった浄土宗開祖の法然の墓所が破壊されており、それを描いた絵巻物も残っている(ただしこれは、洋の東西や信仰する神の違いを問わず語られてきた、いわゆる「殉教物語」にありがちなくだりに過ぎない可能性もある)。
また、徳川によって豊臣政権が滅ぼされた際も、豊臣政権の樹立者である秀吉の墓所が破壊されている。
明治時代には「お墓を破壊してはいけない」という法律も存在した
こうした「敵対者の墓所などへの冒涜」は、近現代に入ってからも続いている。幕末には、いわゆる勤皇派による、歴代足利幕府将軍の墓所への投石などが起きている。そして、こうした足利将軍の墓所への冒涜は、明治以降終戦に至るまで散発し、時には小学校の教員が児童を引率して行ったケースもある。
更にいうと、こうした「敵対者の墓所への冒涜」は、いわゆる天下国家の政治に関して敵対する者同士に限られたことでは、なかったようである。
例えば、明治期には「人の墓所にいたずらをしたり、破壊してはいけない」という法律の条文が、わざわざ作られていた。これも一つには、「気に食わない相手の墓」を冒涜することが、法律で禁じなければならないほど、当時は多発していたからだという可能性もある。