山口県の周防大島や、広島県廿日市市の厳島や島根の石見、愛媛県の複数の地域、更には九州福岡の豊前には、戦前の頃までは「人が亡くなること」を婉曲に表現する、興味深い言い回しが存在した。その言い回しは、「広島に行く(特に、何らかの品物を買いに行く)」というものである。
こうした、人の死を「◯◯へ行く」と表現する言い回しは、沖縄でも報告されている。沖縄県の名護市には、「奥武(おう)島」という名の島があり、古くは人が亡くなることを、「オウに行く」という言い回しがあったという。
東日本にも存在した人の死に関連した独特な表現
これらの、人の死を「◯◯へ行く」と表現する例が報告されている地域は、沖縄も含めて西日本に集中している。東日本では、このような言い回しを生む信仰は、余りなかったのだろうか。
結論からいうと、東日本では若干異なる信仰が一般的であった。ではどうであったかというと、既に死後の世界に渡った死者の魂が、盆などに一時的にこの世に戻った際に、物見遊山や買い物をしたり、農村部などでは田畑などの見回りをしたりすると信じられていた。
ナスやキュウリの馬に乗って買い物に行く
例えば、静岡県沼津市では、「盆期間中に、この世に滞在している先祖の魂が、ナスやキュウリの馬に乗って神田に買い物に行く」といわれる例が報告されている。また、同じく静岡県の東伊豆町の一部では、盆の時期にこの世に戻った先祖の魂は、田畑の見回りに行くとされる。この「盆にこの世に戻った死者が、田畑の見回りに行く」とする信仰は、筆者の出身地を含む関東地方にも、広く分布している。
ところで興味深いことには、西日本の幾つかの地域の「広島へ行く」という言い回しと、沼津市での「神田に買い物に行く」という言い回しには、その死者がいつの時点でそこへ出かけるかの違いはあるが、どちらの言い回しでも、死者が「買い物をする」とされる点で共通している。
「買い物をする」という共通点
沼津市の例では、死者が神田で何を買うのかについては、語られていない。ただ、野菜で作られた動物に乗って移動するとされる点を除けば、普段は行けない繁華街で買い物を楽しむという、生者と変わらない行動を取るとされている。
一方西日本の例でも、死者が広島に行って買うとされる品物は、煙草であったり綿であったり茶であったりと、生者と変わらないものである。
また、戦前の宮崎県の一部では、納棺の際に死者に持たせる袋の中に、一厘銭7枚を入れる習慣があった。これはいわゆる「三途の川の渡し賃」であるとされたが、この世に戻った時に、飴を買って食べるためだとされる場合もあったという。ここでも、死者は生きた人間と変わらない買い物をするとされている。
このように、死者が生者とまるで変わらない買い物をする、という信仰は、東西を問わず日本の幾つかの地域に存在する。この「死者と買い物」の関係については、今後の詳しい研究が待たれるが、沖縄で報告された例では、死者が買い物をするとされた例は、筆者の知る限りではないようだ。
参考文献:「お墓」の誕生 死者祭祀の民俗誌、 葬送習俗事典 葬儀の民俗学手帳、 中山太郎土俗学エッセイ集成 タブーに挑む民俗学