明治から大正の始め頃、子どもたちの間で交わされる約束の際の決まり文句も、地域などの違いにより、様々なバリエーションがあった。そうした多様な約束の際の決まり文句の一つに、現代で一般的な「嘘ついたら針千本飲ます」と同じような役割のセリフとして「親の頭に松三本」というものがあった。
このセリフは、和歌山県出身で近代に活躍した博物学者南方熊楠も、明治13〜14年頃の自分の子ども時代の思い出の一つとして書き残しており、このセリフを唱えた子どもは、両親に厳しく叱られたという。
和歌山県以外では新潟の佐渡でも伝わっていた「親の頭に松三本」
ちなみに新潟県の佐渡でも、似たケースの報告がある。佐渡でも、子どもの約束の際の決まり文句なのかどうかは不明だが、「親の頭に松三本」という言い回しがあり、この言葉を口に出すだけでも、これ以上ない親不孝な行いとされた。
この和歌山県と佐渡の例に共通するのは、「親の頭に松三本」という言葉を「声に出す」ことが、「親不孝な行い」とされ、タブーとされている点である。この「特定の言葉を声に出す」ことがタブーとされる例は、しばしばいわゆる「言霊(言葉には霊力があるとする信仰。また、そうした言葉の霊力)」論で説明される。つまり、特定の言葉を声に出したり文字で書いたりすると、その言葉の通りのことが起きるとされた。
そのため、この和歌山と佐渡の例を当てはめると、「親の頭に松が三本生える」状況は、「好ましくない状況であり、招いてはいけない」とされるものであった。そのため、その言葉を実際に口に出した子どもが、親に対して不孝を働いたとして、厳しく叱られたというわけである。
「親の頭に松が三本生える」というのは、親の死を意味する言葉だった
なぜ「親の頭に松が三本生える」状況が、「招いてはいけない」ほどの好ましくない状況なのか。それには諸説あるが、一つには近世以前の時代、墓に松を特に三本植えるしきたり「墓松」が、様々な地域で行われていたことと、関係があるようだ。ちなみに既に平安時代末に、そうした習俗はあった。
故人を埋葬した時点で一本、二回忌の際に一本、そして三回忌の際にもう一本と、合計三本の松を墓に植える習わしが、恐らく火葬できるほど身分が高くない人々の間にあったことが、記録されている。
この墓松は、墓石の建つ墓が非一般的であった、近世に入る前の時代に盛んに植えられた。そのため、墓石が庶民層にも普及し始めた江戸時代には、墓松を植える習慣は、地域や宗教宗派により差はあるが、次第に下火になっていったが、様々な地域の子どもの遊び歌には、墓松は明治頃まで登場した。
最後に…
このことから判断すると、「親の頭に松が三本生える」というのは、親の死を意味する言葉であった。従って、「親の頭に松三本」という言葉を声に出すのは、親の死期を早める行いとされたため、「不孝」とされたのであった。実際に、よりストレートな言葉遣いで「親墓に松三本」という言い回しも、あったようだ。
なお、中国北部のいわゆる旧満州でも、松を不浄な木として庭木にすることをタブー視し、墓に植える習慣があった。佐渡の「親の頭に松三本」は、この中国北部の習俗が、謎の経緯で佐渡に伝来したものとする説もあるが、信憑性は余り高いとは考えがたい。