イギリス人のリチャード・ゴードン・スミスは、20世紀に入る前後の時期に複数回来日し、そこでの詳細な見聞録を残した。彼の見聞録の中には、当時の東京と大阪の火葬についてのくだりがある。
そこでは、東京の一火葬場で一晩に火葬される遺体は40〜50体、大阪の一火葬場では、一晩に8〜16体であったとある。筆者はこのくだりを読み、最初、当時は東京の方が、火葬率が高かったと思った。
しかし、様々な本を読み、実は大阪よりも東京の方が、火葬率はかなり低かったことを知った。例えば、1905年の東京の火葬率は58%、大阪では90%であった。この火葬率の差の理由については、色々な説がある。
火葬率の違いは信仰によるもの
しかし、東京で江戸期に比べ火葬率が上昇した理由とは違い、大阪での火葬率の高さは、より古い時代から続く信仰に由来する点が強いといえる。なお東京での火葬率が上がった大きな理由としては、「鉄道による遠方からの上京者の増加」と「遺体・遺骨や家の墓地への執着の強化」が、複合的にからんだことが挙げられる。
話を大阪での火葬率に戻そう。前近代の近畿地方では、故人の遺体や遺骨を「穢れたもの」として忌み嫌い、また、故人の魂は遺体や遺骨には宿らないとする信仰が強かった。その理由は一つには、近畿地方の「古都」としての歴史にある。
天皇と高位貴族の「神権政治」と、それを支える文化の中では、「死の穢れ」がタブーとされ、それは次第に庶民層にも共通されるようになった。
例えば、これは村落部の土葬墓の例だが、中世末期〜近世には、故人の遺体を埋葬した「埋め墓」と、墓参り用の「参り墓」を建てる、いわゆる「両墓制」が近畿地方を中心に発生した。「両墓制」が起こった理由は、一つにはこの「死の穢れ」をタブーとする信仰のためだという。
信仰が生まれる背景
更に興味深い点もある。日本では1950年代の初頭に至るまで、故人の遺体へのこだわりの念が薄く、且つ故人の魂は遺体や遺骨には宿らないと考える地域ほど、火葬率が高い傾向があった。
このことを、先述した「死の穢れ忌避」と重ね合わせると、明治期の大阪での火葬率の高さは、まさに、中世から続く「死の穢れ忌避」「魂は遺体・遺骨には宿らないとする信仰」が、最大の理由となっているのではないか。
そして、古都の「神権政治」の担い手だった貴人たちは、まさにその「神権政治」の担い手ゆえに、死後に「死の穢れ」の発生源にならないよう火葬された。そうした歴史もあり、近畿地方の都市に住む庶民には、「火葬は“偉い人”の葬法」であるというイメージが、古くから培養されたことだろう。このイメージが、少しでも貴人にあやかりたい庶民たちの心をくすぐったことも、火葬率の高さと無縁とはいえない。
参考文献:お葬式 死と慰霊の日本史,
民間信仰、 お骨のゆくえ 火葬大国ニッポンの技術、 ゴードン・スミスのニッポン仰天日記