古代ギリシアを代表する哲学者・プラトンは対話篇『ヒッピアス(大)』の中で、人生の理想について「裕福で健康で、ギリシア人に尊敬され、老齢まで生き、自分の両親亡きあとこれを立派に弔い、そのあとで自分の子どもたちによって、立派に、そして偉大な人間に似つかわしい仕方で埋葬されることだ」と語っていた。
このように古代ギリシア人にとって重要な位置を占める葬儀での副葬品について、日本の事例と照らし合わせて考えてみたい。
日本と古代ギリシアの副葬品の違い
今日の日本であれば、墓所におさめられる副葬品とは異なるが、棺の中に、送る側の配慮だったり、生きている間にその意志を伝えてある場合もあるだろうが、煙草などの愛用品、お気に入りの衣類、常に身につけていた眼鏡や指輪などを、敷き詰められた花々と共におさめることがよく見られる。
古代ギリシアでは、富裕な支配階級に限られることだが、例えばギリシア東部のエウボイア島(現・エヴィア島)内の小集落・レフカンディで発掘された、BC9世紀に作られたとされる夫婦の墓から、見事な彩色が施された酒杯や武器、宝石ばかりではなく、戦車を引いていた馬が殺され、主人とともに埋葬されたと推測される、4頭分の馬の骨も発見されたという。
古墳時代の日本にも古代ギリシアと似た習俗があったという
もちろんこのような事例は、古代ギリシアに限ったことではない。真偽に関して、今日の考古学研究において、いろいろな説が論じられているが、古墳時代の日本にも、同様の習俗があったという記録が『日本書紀』巻6、垂仁(すいにん)天皇28(BC2)年の条に存在する。
天皇の弟・倭彦(やまとひこ)が亡くなった際、彼に仕えていた近習(きんじゅ)の人々が生きたまま、立った状態で墓の周りに埋葬された。このため墓の周囲には、彼らの昼夜泣き叫ぶ声が聞こえ、その遺骸は烏や犬に食べられる悲惨さを呈していた。そこで天皇は、この風習を止めるべきであると考えた。そして弟の死から4年後に、天皇の妻・日葉酢姫(ひばすひめ)が亡くなったとき、野見宿禰(のみのすくね)という人物の勧めによって、出雲から「土師部(はじべ)」という職人100人を呼び寄せ、人や馬などを土で作らせ、墓の周囲に立てさせることにしたという。土で作られた人や馬とは、今日我々が知る、素朴で愛くるしい雰囲気をたたえた、埴輪のことである。
権力者の副葬品
現代の我々の価値観では、死者が生前愛用していたもののみならず、そのそば近くに仕えていた人や動物も共に埋葬するということは、人道的に到底考えられないことである。しかし、何故、古代ギリシア人や古墳時代の日本人は、権力者の墓所に、生きたままの人や動物を埋葬したのであろうか。
死者が生前有していた権力の誇示、仕えている者は、権力者の死に殉じるさだめがあった。そしてそのことを当時の人々は特に疑問を呈することがなかった。むしろ死者を心から思っての行為であって、当然のことと捉えられていたのであろう。もっとも、古代ギリシア人の場合、死後の世界とは天国や地獄ではなく、現在の我々が暮らしているのと同様の「死者の町」があったと信じられていたことから、死者が生前と同じような暮らしを送ることができるようにという、送る立場の人間の配慮のゆえであったとも推察される。
死後に何を携えていきたいか、携えてあげたいか
現代の我々にせよ、古代ギリシア人にせよ、葬儀観やその様式は個々異なるものであることは言うまでもない。しかし今日の日本であれば、ある人が亡くなった時、その生前から死に至るまで、大事に思ってきたからこそ、葬儀を盛大に行う、または、必ずしも古くからの伝統に則していなかったとしても、死者の生前の意向を尊重したやり方で行うなど、多様な選択肢が存在するようになってきた。
そうなると、さすがに生きたままの人や動物ということはないにせよ、従来の価値観から外れたものを棺や墓の中におさめる可能性もある。それゆえ、自分が死ぬときに、「天国」、「地獄」、或いは古代ギリシア人が信じていた「死者の町」に何を携えて行きたいか、或いは、一切何も持って行かないかなどを、元気な今のうちに考えてみることも、自分自身、または自分の生きて来た道筋を客観的に見つめ直す一助となるのではないだろうか。
参考文献:埴輪、 プラトン全集〈10〉、 日本書紀〈2〉、 ヴィジュアル版 ギリシア・ローマ文化誌百科〈上〉、 埴輪を知ると古代日本人が見えてくる