毎年11月を過ぎると「年賀欠礼」の挨拶状が届く季節になります。「喪中につき新年のご挨拶を失礼します」という内容のものですね。
喪中というのは大変よく耳にする言葉ではあるのですが、そもそも喪中とはなんのことなのか、そして喪中にはどういう行動をする(あるいは行動を控える)べきなのかについて、一般に誤解や曲解がまかり通ってしまっているのが現状のようです。
そもそも「喪中」とは?
わが国では、親族が亡くなったときに身内の者が喪に服する習慣があります。これは正しくは忌服(きぶく)または服忌(ぶっき)と呼び、中世に伊勢神宮を中心にして、その期間や慎むべき行為について定められたのが最古の例とされています。
忌とは読んで字のごとく死者を忌むことで、死者を祀り死の穢れ(気枯れ)を祓うという意味です。
古来、神道では死を穢れたものとみなす思想がありました。死者の身内の者も、穢れを他人に移してしまうことを避けるために「忌引」として仕事や学業を休み、神事を執り行わず神社にも参詣しないようにします。
この期間を忌中と称します。
服は故人への哀悼の気持ちを身をもって表すことです。古くはこの期間に喪服を着用し続けたことから服と呼ぶようになりました。慶事を主催することや慶事に参加するのを控え、殺生を行わないようにします。
忌と服の期間を通したものが喪中になります。
喪中の歴史的な背景
江戸期の喪中の長さについては、幕府によって定められた「服忌令」が公的な基準として用いられることになっていましたが(服忌令では、忌を最長50日、服を最長13ヶ月としています)、実際には、地方の慣例や武家と公家の違い、家に伝わるしきたりなどによってまちまちなものでした。
ことに、仏教では死を穢れたものとは考えませんから、本来は喪に服するという概念自体がないのですが、葬儀を寺が一手に取り仕切っていたことにより四十九日法要明けや一周忌と混同され、宗派ごとに喪中があったりなかったり長さが異なったりしていました。
明治政府が樹立されると、公家(華族)の喪中期間が非常に長いことが問題視され(喪中を理由に貴族院の公務を休む者が続出したのです)、明治7年に太政官令で服忌について改めて法令で定められることになります。
この法令は昭和22年に廃止になっているのですが、現在の日本で慣例化している喪中の期間は、未だにこのときの太政官令に準拠していることが多いようです。
この太政官令をよく読むと、夫の親が亡くなったら妻は喪に服しますが、妻の父母が亡くなっても夫は服喪しなくてもよいことになっていたりします。
喪中の期間も、故人との縁故関係の深さに比例して長くなるように設定されています。
つまり服忌制度というものは、家制度や家督相続など男性中心社会での儀礼であって、男女共同参画社会になっている現代では、こんなものを持ち出すこと自体が、時代遅れの人権感覚に乏しいタイプだと見なされてもしょうがないという面も持ちあわせていると言えるかもしれません。
とくに以下のような例については、冠婚葬祭の専門知識を持つ人でさえ間違ったアドヴァイスをしている場合が多いので注意が必要です。
喪中に年賀状はOK
冒頭に出した「年賀欠礼」の挨拶状についてですが、この習慣は昭和30年代ごろから流行しはじめたもので、なんの宗教的根拠も規範となる法令もありません。
喪中でも年賀状は出しても受け取っても一向にかまわないのです。
葬儀後の一年間は神社参詣や神棚参拝、初詣もOK
葬儀の後一年間は神社に参詣したり神棚を参拝したりしてはいけないというのは、忌中と喪中を同じものだと思い込んでいるケースです。
忌が明けたら、神社に出入りするのも神棚を拝むのも問題ありません。(初詣も同様です。そもそも神社ではなく仏閣に初詣するのは、仏教には喪中などというものがないのですから禁忌にはあたりません)
喪中にお中元やお歳暮もOK
お中元やお歳暮は祝いごとではなくて一種の挨拶ですので、喪中にこれを自粛したり表現を変えたりする必要はありません。
喪中の婚礼は微妙
婚礼については親族間に関することになりますので、催すのも参加するのも多少微妙な例になりますが、主催者が納得していれば喪中でも執り行ってかまわないとするのが一般化しつつあります。
まとめ
喪に服すというのは、あくまでも故人を悼むという気持ちの問題っだということさえ忘れなければ、現代の日本では、あえて慣例を無視してしまっても非常識呼ばわりされることまではないと考えていいものだと思われます。