我々は実際に「地獄」を見たり、体験したことがないにも関わらず、辛く悲しい日々を生きていることを「生き地獄」と、そして見るも無残な大災害や事件事故を目にした折に、「地獄絵図」と言い表したり、思ったりする。我々日本人が思い浮かべてきた「地獄」とは一体何なのだろうか。今日、観光名所で名高い、富山県の「立山・アルペンルート」の立山には、「地獄」があるという。
平安時代から富山県の立山は「地獄」とされてきた
平安末期に成立したとされる仏教説話集『今昔物語集』第14巻第7話には、「越中の國□(伏字)ノ郡ニ立山ト云フ所有リ。昔ヨリ彼ノ山ニ地獄有リト云ヒ傳ヘタリ…(略)…日本國ノ人罪ヲ造テ多ク此ノ立山ノニ堕ツト云ヘリ」という記述がある。
何故立山に地獄があるのか。それは、立山山中に今なお、強烈な硫黄の香りとともに、たぎった熱気、そして白く吹き上がる水蒸気を吐き出し続ける、通称・地獄谷と呼ばれる、およそ3kmにも及ぶ活火山が存在していること。そしてそれが、平安中期から広まった、穢れに満ちた現世に対する厭離や絶望感から、仏教の教えが廃れてしまったとする末法思想、そしてそれとは真逆の、阿弥陀仏がおわします、永遠の浄土を欣求する浄土思想の蔓延から、仏教が説く「地獄」のイメージと、立山の地獄谷の光景が一致していたことが最大の理由であろう。
そして、立山が京の都や人々の集住地域から、遠く離れた場所に位置していたことから、空恐ろしい地獄のイメージが拡大され、喧伝されるに至ったとも考えられる。また、古今東西の古代の民が有していた、山は神々の住むところであり、春になると里に神が降りて来て、人々に作物の恵みを与える。そして秋の収穫が終わると山に帰るという素朴な信仰、それと同時に、人々が住む集落から遠く離れた山には、神のみならず、穢れに満ちた死霊が集まる恐ろしい場所として、畏怖されてきたこと。更に、京の都から見て、立山が凶方位とされる鬼門(北東)に位置するためであるという説もある。
ヨーロッパでの「地獄」とは?
今日の日本の「地獄」は、主に中世ヨーロッパのカトリック世界で描かれていた地獄絵やそのイメージと混在した格好となっていることは否めない。そもそも仏教で教えられてきた「地獄」とはどんな場所なのだろうか。
「地獄」とは、輪廻転生を繰り返す、魂の不滅を教えた仏教成立より前、紀元前200年以降に成立したとされる後期ブラーフマナ文献に登場する「二道説」がその源であるという。二道説とは、死後、霊となった存在が行く先が、生前の行ないの善悪によって、2つの道に分かれるという考え方である。その思想が時を経て、4世紀のインドの学者ヴァスバンドウによる『阿昆達磨倶舎論』など、仏陀死後の仏教思想と混じり、そして最終的に中国、朝鮮経由で日本に伝わった後、先に述べた末法思想、浄土思想を具体的に著した、985年(寛和元年)の源信による『往生要集』に、その様が具体的かつ精緻に記されている。
地獄は地下奥深く一千由旬(ゆじゅん。1由旬は王の軍隊の1日の行程とされ、正確な長さは不明)に位置し、縦の広さは一万由旬あるという。そこには大小136の地獄が存在し、それら全てを統括するのが閻魔大王だ。地獄の代表的なものとして、「八大熱地獄」がある。例えばそのひとつに、「等活(とうかつ)地獄」というものがある。この地獄に落とされた者は、互いに害心を抱き、同じ人間同士なのに、相見た瞬間から相手をつかみ裂く。お互いが血も肉も尽き果てるまで殺し合い、ただ骨だけが残った状態になった時、地獄の獄卒(鬼)が現れて、その骨を砂状になるまで打ち砕き続ける。それでも死に切れない亡者たちに、どこからか「活きよ、活きよ」という声が聞こえてくる。すると彼らは元の体に戻り、また最初から、つかみ合い、殺し合いを始める。それは永遠に続くという。こうしたリセットと永遠性を伴う地獄には、焼けただれた銅液を無理矢理に飲まされる「叫喚地獄」、舌や目玉を抜き取られる「大叫喚地獄」がある。
「地獄」は悪事の歯止めとして生まれた?あるいは単なる教え?
これらの地獄がやるせないところは、ギリシャ神話のシーシュポスのエピソードを想起させるところだ。神罰により、シーシュポスは巨大な岩を山頂に運ばなければならない。しかし、山頂にたどり着いたかと思ったところで、巨大な岩は、元来た道に転がり落ちてしまう。シーシュポスはまた最初から、岩を山頂まで運ばねばならない。また山頂に着きかかったところで、岩は転がり落ちる。それは永遠に続く。あらゆる努力も全てが無駄で、徒労に終わってしまうこと、それが地獄の苦しみとして描かれているということは、熱火で焼かれ続ける「黒縄(こくじょう)地獄」、2つの山に挟まれ、押しつぶされる「衆合地獄」などよりも、人間にとって到底味わいたくない、苦しく悲惨な拷問であることを物語っている。
こうした地獄は現実に存在するものとして、「地獄絵図」として詳細に描かれ、人々の恐怖をあおりつつも、さまざまな罪の誘惑に対して、自戒の念を抱かせること、更には仏教への帰依を促すツールとして役立ってきた。特に立山では、火山という「地獄」を有していながらも、山中のどこか、及び、山頂のはるか彼方には、阿弥陀如来のご加護に満たされた浄土があるとする、立山の「聖地」としてのありようを際立たせた格好で、巨大な宗教施設を擁するようになっていった。その際、地獄と極楽を同時に描き出した「立山曼荼羅」は、立山の僧侶やその衆徒たちによって、山中の寺社のみならず、全国津々浦々を経巡る格好で絵解きがなされ、明治初期の廃仏毀釈まで、多くの人々の尊崇を集めてきた。
現代を生きる我々にとって、『往生要集』以降に描かれた地獄は、今なお恐怖の対象、または罪を犯さずにはいられない自分自身の甘さや驕りといった「暴走」の歯止めになりうるものだろうか。日々生きることそのものが「地獄」かもしれないし、「地獄」のありようを、古い時代の宗教の単なる「教え」でしかない、現実から乖離した非科学的なものだと捉え、切り捨ててしまうのか。
最後に…
平安末期には、活火山があった立山が「地獄」と選定された。それは立山に限らず、江戸中期に記された百科事典、『和漢三才図会』の中でも、「日本に地獄あり。皆、高山の嶺常に焼け、肥前の温泉、豊後の鶴見、肥後の阿蘇、駿河の富士、信濃の浅間、出羽の羽黒、越中の立山、越の白山、伊豆の箱根、陸奥の焼山、温泉絶えず若き」と、立山以外の山々が挙げられている。
今の我々は日本の「どこ」に「地獄」を見いだし、そう呼ぶのだろう。「心当たり」がある人もいるかも知れない。現実上叶うことではないが、100年、200年後に語られ、描かれた、今現在を含む、2000年代初頭の「日本の地獄」をぜひ、見てみたいものである。
参考文献:和漢三才図会、 今昔物語集、 立山信仰の源流と変遷、 立山町史、 立山信仰の歴史と文化、 死後の虚実、 北アルプス北部 -白馬・立山- (ブルーガイド山旅ルートガイド)