日本式仏式葬儀の様式そのもののルーツは、いわゆる檀家制度が布かれた江戸時代よりも実は古く、中世の禅宗にまで遡ることができる。
この時代、禅宗の宗派の一つである曹洞宗では、独り立ちの僧侶になる前の修行僧が亡くなった際、彼らの志を果たしてやるため、故人を正規の僧侶としての扱いで弔うしきたりがあった。そして、このしきたりを、男女僧侶ではない一般の人々の葬儀に応用したのが、日本式仏式葬儀の始まりである。
ところで、この時期のいわば草創期仏式葬儀は、実は良くも悪くもビジネスとしての側面が、極めて強かったということは、なかなか知られていない。
寺院に所属するという契約をかわすことで葬儀や供養が提供された
結論からいうと、近世以降のような檀家制度が存在しなかった時代の、寺院(特に禅宗系寺院)と一般の信者との関係は、一言でいうなら「徹底した契約関係」であった。
そもそもまだ檀家制度が存在しないのだから、信者が寺院に所属することを証明するためには、契約が不可欠であった。そして契約さえすれば、誰でもその寺院に所属することが認められた。
そして、こうした寺院と信者との契約で、寺院が果たすべき義務の一つが、「信者の葬儀を出すこと」であった。更には、現代的な意味での「無縁仏」の概念もまだ存在しなかったため、当時のいわば「寺院と契約した信者の権利」としての仏式葬儀は、そのまま現代でいうところの「永代供養」でもあった。
信者から受け取った契約金を元手に金融業を営んだ寺院
こうした契約で、信者が支払う料金(宗教性のある言い方をするなら、寄進した布施)が、中世に盛んだったいわゆる寺院金融の貴重な元手の一つであった。
現代の日本や海外で知られる、いわゆる「日本の禅文化」のイメージからは想像しがたいが、この時代の仏教寺院、特に禅宗系寺院は、現代でいう金融業者的な役割も持っていた。特に禅宗の一宗派である臨済宗は、その傾向が顕著であり、中世には、信仰に関する専門部門と、世俗性の強い金融ビジネスに関する専門部門があったほどである。
金融業で得た利益は信者に還元されていった
南北朝から室町時代の日本の、特に都市部では、「土倉」などの名で呼ばれる金融業者が大いに発達した。そしてそうした金融業に、仏教寺院もしばしば参入したというわけである。しかも寺院金融は、一般の金融業者よりも低利で金を貸したため、多くの人々に支持された。
そして、そうした金融業で寺院が得た現金収入の多くは、自分たちと契約した信者のための永代供養の費用となった。
このように、日本史教科書でも言及される中世の金融業と、余り注目されていない草創期仏式葬儀は、実は極めて密接に結び付いて発達してきたのであった。