前編冒頭の新田橋に話を戻そう。新田橋は大正時代(1912〜1926)に岐阜県加茂郡から上京し、日本医学専門学校(現・日本医科大学)で医学を修めた後、永代(えいたい)通り沿い(現・江東区木場5丁目)に医院を開業していた新田清三郎(1883〜1945)が、昭和7(1932)年、旧国鉄大月駅における列車事故で亡くなった夫人の霊を慰めるため、「橋供養」の意味を込めて、国鉄からの弔慰金(ちょういきん)や香典を元手に、近所の多くの人たちと協力して架けられたものだ。当初は「新船橋」と呼ばれていた。
「拝み屋」と「疝気稲荷」の時代――近代医療以前の木場に息づく生活の知恵
明治(1868〜1912)・大正(1912〜1926)・昭和の戦後(1945年)ぐらいまでは今日と異なり、「木場」に限らず、「病院にかかる」ことは、地域の古老の話によると「(重篤で)帰ってこられないじゃないかっていうくらいじゃないといかない」。「病気より、金がかかって、身上(しんしょう、財産や暮らし向きのこと)つぶしちゃうっておっかながって、いやがっていた」ようだ。それゆえに、現在江東区南砂3丁目に維持・保存されている小社・仙気(せんき)稲荷神社が1967(昭和42)年に移転する前は、下腹部の痛みや病気全般を指す「疝気(せんき)のお稲荷さん」として、地域の人々から尊崇を集めていたことから、そこから出されていた「疝気丸」を飲んだり、盲腸になった時は、冷やしてそれを「小さくして」治したりしていた。風邪を引いた時は、幼児なら救命丸を飲ませるものの、ある程度大きくなった子どもには何もしない。もし騒ごうものなら、「田舎なんてどうするんだ!」と一喝される。手を怪我した時は、「なめりゃなおっちゃうんだ」とも。そのため近在には、病全般の快癒を祈る「拝み屋さん」がいたりもしたという。
しかも「この辺り」はもともと、陸地ではなかった。富岡八幡宮(現・江東区富岡)を例に挙げると、もともと、「深川永代島」に所在していた。しかもその島は、八幡さまが所在していたとはいえ、葦や萱の生い茂る荒地だった。1671(延宝8)年当時、そこだけが岬のように突き出していて、その下は海だったのだ。都となった江戸の町をつくるのに必要だった材木と、その売買に携わる問屋・仲買人たちは江戸初期の1604(慶長11)年頃は、今の八重洲や馬場先門(ばばさきもん。現・千代田区)、南茅場町(みなみかやばちょう。現・中央区日本橋茅場町)などに点在していた。しかし、1641(寛永18)年、江戸市中で大火が発生した。小さな火の不始末が大きなものになったのは、市中の材木屋が常日頃、材木を店の面に高く積み上げているから、火の粉が飛び散って燃え広がったんだ!」と町人たちの懸念が高まったことから、幕府は永代島を材木置場とした。当初は言葉通りの材木の集積地でしかなかったのだが、1657(明暦3)年、江戸の半分を焼け野原にし、10万人以上が亡くなったという「振り袖火事」の後、「川向こう」とも称されていた「荒れ地」の深川・本所(ほんじょ。現・東京都墨田区)に対し、「もしも大川(おおかわ。隅田川のこと)に橋が架かっていたら、『川向(かわむ)こう』に避難できて、多くの人が死なずに済んだのに…」などと、注目されるようになった。そこから、「木場」という場所に、舟を停めることができる運河建設、両国橋を架橋するなどの大がかりな開発。富岡八幡宮周辺では、「気風の良さ」で知られた辰巳(たつみ)芸者が世に知られたり、人を惹きつける各種店舗の進出が進んだりしたと言われている。
その流れを汲むものであろうか。元禄(1688〜1704)の頃、木場のすぐ近くに、海岸を埋め立ててできたことから「洲崎(すさき)の原」と呼ばれ、1700(元禄13)年に弁天さまがお祀りされていた「場所」があった。木遣(きやり。今で言う労働歌)が響く、「材木の町」の無骨な側面ばかりでなく、屋形船を浮かべて「粋な」「艶な」宴会遊びをするようにもなっていった。1889(明治22)年、近在の大規模な埋め立てが完了した頃、本郷の東京帝国大学近くから移転してきた根津遊郭が「洲崎遊郭」(現・東陽1丁目周辺)として、大盛況を誇ったりもしていた。
「木場の赤ひげ先生」新田清三郎 名もなき橋が「新田橋」に変わるまで
このような「いろいろな人の出入り」、そしてそれと相反する、近在の昔から人々の「古い生活の知恵」や「常識」、に「近代」「科/化学」の知恵をもって、ある意味「孤独」に抗う側面が少なくなかったであろう新田だが、町内会長を務めたり、1923(大正12)年の関東大震災の折には、自宅の畳を道に並べ、負傷者を救護したり、避難民に食糧を与えたりするなど、「木場の赤ひげ先生」として地域の人々に愛されていた。そんな新田だったからこそ、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲の際も、爆弾落下後の防火活動や負傷者救護に当たっていたのだが、大火に飲まれて殉職してしまう。地域の人々の新田を偲ぶ思いから、橋の名前はいつしか「新田橋」へと変わっていった。初代の橋は近在の富岡八幡宮の脇にある、旧八幡堀遊歩道に保存されているが、現在の橋は平成12(2000)年に架け替えられた…。
月と潮と急患と――「研究者」新田清三郎が追い求めた生命の真理
命がけで我が身を顧みず、地域の人々の命を救った新田だが、東京帝国大学(現・東京大学)で医学博士の学位を取った「研究者」でもあった。1928(昭和3)年、成城学園が出版した雑誌『全人 教育問題研究』第38号の中で、「父兄」として、「生活と自然」という文章を発表している。その中で彼は、自身が研究者となったきっかけを記した。それによると、岐阜の山の中で育った新田は、海を見ることが少なかった。しかし秩父の山々にまで遡る、荒川水系の舟運による木材輸送の「集積地」である木場ゆえに、自身の経営する病院のすぐそばで、潮の満ち引きを目にすることができた。そこで彼は毎日、それを眺めていた。その後、潮の満ち引きと月の運行に注目し出した。更には、真夜中に急患で患者の家に向かう際、フッと空を見上げると、新月(月と太陽が地球から見て同じ方向になるため、空に見えない月)・満月・弦月(げんげつ。半月(はんげつ)のこと)の夜が多いことに気づいた。それが何度も繰り返されているように思われた新田は、昔から言い伝えられている、潮の満ち引きと出産や死亡との因果関係を想起し、果たしてそれらが真理なのかを研究しようと思い立ったという。それは1914(大正3)年後半ごろのことだった。
その後新田は、「『いとめ』の生活と月齡との關係」(1926年)、「天體引力と生理との關係につきて」(1928年)、「萬有引力と心臓生理及び病理」(1930年)、「イソメLumbriconereis heteropoda Marenz.のNereistoxinの化學的研究」(1934年)、そしてそれらの集大成である、「Lumbriconereis heteropoda(いそめ)ノ體中ニ於テ著者ノ發見シタルNereistoxinノ藥理學的研究」(1941年)で、博士号を取得したのだ。しかも新田の研究実績は、今なお、「生きている」。
かねて「医師」でありつつも日々、「海」を精査していた新田は、古来海魚の釣り餌として用いられていた、ミミズなどの総称である環形(かんけい)動物・イソメの一種であるLumbriconereis heteropoda(現・Lumbrineris属)に日本人で初めて着目した。それは、1922(大正11)に、新田に頭痛・嘔吐などを訴えた患者が「土地柄」ゆえか、大量のイソメを扱っていたことを知り、その原因がイソメの体内に含まれている「毒素」ではないかと疑った。そこで新田は、イソメの毒素研究に傾注することとなる。
木場が生んだ世界的発明:アジアから南米まで、世界の食を支える新田博士の遺産
新田は1934年(昭和9)年、東京湾(現・千葉県浦安市)産のイソメの体内から神経作用性物質を分離することに成功した。そしてその組成式であるC5H9NS2を論文内で報告した。その物質に、新田の師匠である東京帝大の医学教授であった永田潜(ひそむ、1876〜1957)が、イソメの属名Lumbriconereisのnereisから、ネレイストキシン(Nereistoxin)と命名した。上記の組成式は厳密には間違っていたのだが、1941(昭和16)年まで続けられた新田の研究によって、ネレイストキシンは塩基性有機化合物であり、しかも神経、特に副交感神経に作用する毒物であることが明らかにされたのである。
時を経て、1960(昭和35)年に東京大学農学部水産化学研究室において、ネレイストキシンの効率的な分離抽出法が確立された。しかもそれがイエバエなどに麻痺作用を及ぼすことも確認された。その後、武田薬品工業が1964(昭和39)年に、ネレイストキシンから分離抽出された物質のうち、殺虫力が強く、混血動物(例えばロバとウマを交配したラバなど、人為的につくられた動物のこと)に対する毒性が比較的弱い「カルタップ」を選び出した。それから3年後、武田薬品工業は「カルタップ」を農薬登録し、「パダン」という商品名で発売した。2007(平成19)年には、住友化学が「カルタップ」の農薬登録を譲り受けた。そしてそれは現在に至るまで、日本国内のみならず、中国・韓国・台湾・インド・ベトナム・マレーシア・フィリピン・インドネシア・マレーシア・パナマ・コスタリカ・コロンビア・ベネズエラ・アルゼンチン・ブラジルなどで、水稲や野菜などの防虫防除剤として広く利用されているのだ。
新田博士が「橋」に託した真意――荒川の舟運が生んだ埼玉と木場の深い絆
このような「背景」を持つ新田が、「橋供養」を行なったのは、何故だろうか。
鉄道が敷設される前、そして交通網が発達するモータリゼーション以前の、「武蔵国」時代の大部分の埼玉県においては、舟運が重要な交通手段であった。しかも「木場」を「木場」たらしめていた「木」は、荒川から筏(いかだ)で運ばれてきていたのだ。「妻の供養」のために「橋を架けた」のは、江戸商業の花形、そして江戸市中の様々なインフラ整備に欠かせなかったで「材木業」の大拠点である「木場」という土地柄、その始源/資源が荒川源流の山々にあること。そこで大切にされていた「石橋供養塔」を建立する風習と、深いつながりがあるのではないか。
また、現在は目黒区下目黒(しもめぐろ)だが、1910(明治43)年に移転するまでは、新田の病院からほど近い、現在の江東区深川2丁目に所在していた隠元隆琦(いんげんりゅうき、1592〜1673)開基で黄檗(おうばく)宗の寺院・海福寺(かいふくじ)には、「文化四年永代橋崩落横死者供養塔」(1807年)、そしてその手前には、「永代橋沈溺横死亡諸亡霊塚」(1856年)がある。
「永代橋(えいたいばし)」とは言うまでもなく今日、中央区新川(しんかわ)1丁目と江東区佐賀(さが)・永代1丁目を結ぶ、184.7mにも及ぶ「大橋」だ。そこで1807(文化4)年8月19日に、「史上最悪」と言われる崩落事故が起こったのだ。
死者1500人の衝撃「永代橋崩落」――新田博士を橋供養へと突き動かした地域の記憶
その日はちょうど、先に登場した富岡八幡宮で、12年前の1795(寛政7)年、喧嘩が原因で中止となっていた大祭が開催されるということで、大勢の人が詰めかけていた。もともとこの祭事は1642(寛永19)年に、4代将軍・家綱(いえつな、1641〜1680)の成長祈念に始められたものであったことから、時の将軍・徳川家慶(いえなり、1773〜1841)の世子(せいし。後継のこと)らが乗った御座船(ござぶね。高位の者が乗る豪華な船)がお出ましになった。そしてそれが橋の下を通過した後、通行止めが解除された。その途端、一斉に人々が永代橋を渡った。当時木造だった永代橋は1698(元禄11)年に架けられ、しかも河口に所在していたことから、何度も修復工事は行われていたものの、従来の橋よりも傷みや劣化が激しく、また、船同士の衝突事故などによる「もらい事故」的な衝撃を受けることも少なくなかった。そのため、深川側からおよそ11〜13mのところで橋脚が沈み、橋桁が2つに折れてしまったのだ。その結果、久しぶりのお祭りに興奮していた人々が、「米粒のようにこぼれ落ち、泥の中に埋まった人々の上に、次々に人が落ち重なっていく」。溺死・行方不明者は1500人とも伝えられる大惨事となったのだ。
そのような悲しい歴史を有する永代橋は、新田が医院を開いていた木場や、現在の新田橋から徒歩で30分ほどである。だからこそ「大規模な崩落事故が起こった」ことは新田にとって「痛ましい」もので、今後このようなことが2度と起こらないよう、「橋」を「供養」したいという強い思いがあったのではないかと想像される。
そして第三の理由として考えられるのが、1199(建久10)年1月13日に、時の征夷大将軍・源頼朝(1147〜1199)が橋供養の帰りに亡くなったことだ。ヒノキでできたその橋の橋脚(きょうきゃく)は、現在の神奈川県茅ヶ崎市下町屋(しもまちや)1丁目に残されている。橋供養そのものは頼朝の重鎮・稲毛重成(しげなり、生年不詳〜1205)が亡き妻の供養のために行なったもので、それに頼朝が参列していたという。橋供養が当時、「大切な儀式」であったことが窺い知れる。確かに「木場」から「茅ヶ崎」はとても遠いものの、「亡き妻の供養」というところに、新田との「共通点」が見られるのだ。
変わりゆく「木場」と変わらぬ「祈り」――新田橋が繋ぐ街の記憶と未来
今日の「木場」はもう、「木」にまつわる様々な職業に携わる人々が暮らす「材木の町」ではない。例えば木場1丁目には、2019(令和元)年に、およそ9000億円の売上高を上げた、株式会社りそなホールディングスの本社が所在するなど、「ビジネス街」へと変貌している。少し遠くを眺めると、豊洲や有明の巨大タワーマンション群が目に飛び込んでくる。生活に根ざし、そこに在る人々と常に共に在った、角乗(かくのり。川に浮かんだ丸太に乗って器用に動く芸能)も木遣歌はもはや、貴重な「伝統芸能」、「遺産」になってしまった。しかし、だからといって、「木場」が「木場」としての存在意義を失ったことにはならないのは、言うまでもない。今後もっと「木場」が変貌を遂げたとしても、新田が行った「橋供養」への様々な思いは、「木場」の中で生き続ける。何故なら、新田橋の架橋に際し、「祈られたこと」は、新田を含め、「ここ」で生き、新田橋を渡った多くの人々の魂の菩提を弔うための「供養」だけではなく、「ここ」の「存続」「安寧」も強く願い求められたからである。
参考資料
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■新田淸三郎「生活と自然」成城学園(編)『全人 教育問題研究』第28号 1928年(122-131頁)イデア書院
■新田淸三郎『第七回大日本生理學會報告要旨 天體引力と生理との關係につきて』1928年 日本醫科大學同窓會
■新田淸三郎「第八回日本醫學會報告要旨 萬有引力と心臟生理及び病理」1930年 新田淸三郎
■新田淸三郎「イソメLumbriconereis heteropoda Marenz.の毒素ネライストキシンNereistoxinの化學的研究」『藥學雜誌』第54巻 第7号 累號629 別冊 1934年(32-36頁)日本藥學會
■新田淸三郎「Lumbriconereis heteropoda(いそめ)の體中ニ於て著者ノ發見シタルNereistoxinノ藥理學的研究」『東京醫學會雜誌』第55巻 第9号 補冊 1941年(286-303頁)東京醫學會
■江東区(編)『江東区史全』1957年 江東区
■吉澤義則(校注)『應永書寫 延慶本平家物語』1961年 白帝社
■鳥越文蔵「摂州渡辺橋供養」『演劇界』1972年7月号(118-119頁)演劇出版社
■秋永芳郎『江戸東京 木場の歴史』1975年 新人物往来社
■山本節「渡辺家伝(わたなべけでん)」稲田浩二・大島建彦・川端豊彦・福田晃・三原幸之(編)『日本昔話事典』1977年(1038頁)弘文堂
■坂井道彦「殺虫剤研究開発のプロセス(1) イソメ体内の殺虫成分」『科学と実験』1980年6月号(65-70頁)共立出版
■紙谷威広「橋占(はしうら)」桜井徳太郎(編)『民間信仰辞典』1980/1983年(229頁)東京堂出版
■本間信治『消えてゆく東京の地名』1983年 月刊ペン社
■小林美和『平家物語生成論』1986年 三弥井書店
■松本善治郎『江戸・東京 木場の今昔』1986年 日本林業調査会
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■細田隆善『東京史跡ガイド 8 江東区史跡散歩』1992年 学生社
■宮田登「橋」石川弘義・津金澤聰廣・有末賢・佐藤健二・島崎征介・薗田碩哉・鷹橋信夫・田村穣生・寺出浩司・吉見俊哉(編)『大衆文化事典』1991年(611頁)弘文堂
■幸田憲・新城常三・乾宏巳・伊藤学・宮田登「橋」下中弘(編)『日本史大事典』第5巻 1993年(782-784頁)平凡社
■ひろさちや「信仰の対象としての川」ひろさちや・吉川英史・富山和子・杉本苑子・渡部一二・戸田宗安『川と文化』1994年(5-44頁)朝日カルチャーセンター
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■泉麻人「江東 気になる名所案内 第27回 木場の新田橋伝説」江東区文化センター(編)『カルチャーナビ KOTO』No.400 2015年9月10日 公益文化財団法人江東区文化コミュニティ財団
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■「【恋塚寺】悲しい恋のお話が眠る下鳥羽のお寺に残るミステリー」『デジスタイル京都』 2017年10月29日
■住友化学株式会社 『農薬抄録 一般名:カルタップ(殺虫剤)』1987/1997/2012/2015/2018年
■「石橋供養塔」『狭山市』2018年6月13日
■小山桜子「人が米粒のようにこぼれ落ち…江戸時代に隅田川で起きた最悪の事故『永代橋崩落事件』」『Japaaan』2020年8月18日
■がくまるい「『さむしろに衣かたしき今宵もやわれを待つらむ宇治の橋姫』現代語訳・古文」『カクヨム』2020年12月
■大島廣志(編)『日本災い伝承譚』2021年 アーツアンドクラフツ
■友井太郎「橋から落とされるのは誰?」



























