中世の日本では、火葬が貴人の間で普及していき、権力争いに敗れて流刑に処された上皇も、流刑先で亡くなると火葬された。
流刑に処され、その地で亡くなった上皇といえば、その中でも様々な意味で特に有名な人物として、平安末期の崇徳上皇がいる。彼の流刑先での死と火葬は、「源氏物語」で、零細貴族の娘の夕顔が特別に火葬されたくだりと並び、高校生だった筆者に「歴史と葬儀文化」への関心を持たせるきっかけとなっている。
怨霊となった崇徳天皇
崇徳上皇は、弟後白河天皇との戦い「保元の乱」に敗北して讃岐(現在の香川県)に流刑され、その地で亡くなっている。この彼の死のくだりが、怨霊伝説として語られていることは、日本史や日本古典に関心のある方の間では有名である。
その伝説の中で語られる、亡き崇徳上皇が怨霊となるに至ったいきさつには、大変興味深い描写がある。簡潔にいうと、後白河天皇や彼に味方した人々を呪い、彼らや彼らの子孫に末長く祟ることを誓って亡くなった上皇は、流刑地の讃岐で火葬された。
その際、煙が高く立ち昇り、平安京に向かってたなびいた、という描写である。
「火葬の煙」を怨念の象徴として使ったルーツは古代中国にあった?!
争いに敗れ、戦死・刑死や敵方の暗殺による死、追放先での死を遂げた要人が、死後怨霊となったという伝説は、中世の日本では、崇徳上皇を始め多く語られている。しかし、崇徳上皇の例のような、「遺体を焼いた際に煙が立ち昇り、敵方の本拠地に向かってたなびいた」というくだりが語られるケースは、筆者の知る限りでは、彼以外にはみられない。この「敵地に向かってたなびく火葬の煙」の描写は、火葬をめぐる信仰の多義性・重層性を示す貴重な描写であると思うが、この件に関する研究もほとんどない。
この、「遺体を焼く煙が敵方の本拠地に向かってたなびく」描写のルーツの一つであるかも知れないくだりが、中世には既に日本に伝わっていた、古代中国の伝説の中にある。但しここで立ち昇ったのは、「遺体を焼く煙」ではない。
それは、様々なバリエーションで語られた「蚩尤(しゆう)伝説」である。
蚩尤伝説とは?
蚩尤とは、古代中国の伝説の巨人族の王である。一連の伝説によると彼は、これまた伝説の王である黄帝との戦いに敗れ、「反逆者」として処刑された。蚩尤の首と胴体は、復活を恐れた黄帝たちによって別々の場所に埋められた。
しかし、『皇覧』という書物によると、彼の首を埋めた塚から赤い霧が高く立ち昇った。旗のような形状の霧だったので、「蚩尤旗」と呼ばれた。これを蚩尤の怨念であるとして、祟りを防ぐため毎年祭祀を行うようになったという。
この蚩尤伝説は、日本でも知識人の間で早くから知られていた。ここで語られた、蚩尤の首塚から立ち昇った「蚩尤旗」のイメージが、崇徳上皇を火葬した際、平安京に向かってたなびいた煙のくだりに影響を与えている可能性も、ないとはいえない。