安土桃山時代〜江戸時代初期の藩主や家老など高位武家では、その一族や地方などにより、様々に異なる葬儀の風習があった。
例えば西日本の一部では「主君が亡くなって火葬される際に、家来たちが指先を切り落とし火葬の火に投げ込む」というものがあった。
この風習は、当時来日した西洋人によるわずかな記録しか残されておらず、どこまで実施されていたのかよくわかっていない。
伊達家の葬儀の風習「灰塚」とは?
当時の葬儀の謎の風習として、仙台藩祖の伊達政宗や、彼の母保春院の葬儀の際に行われた「灰塚」を紹介したい。
灰塚とは、藩主や藩主夫人が亡くなり葬儀を行う際、遺体は葬儀前に土葬あるいは火葬によって埋葬する。そしてカラの棺のみで葬儀を執り行い、葬儀の後にその棺を燃やす。棺を燃やした灰を、故人の遺体・遺骨の埋葬地とは異なる場所に埋め、塚を築くというものである。
いつ、どんな理由で始まったのか謎
このしきたりがいつ頃、どんな理由で始まったかはよくわかっていない。
そして、灰塚のしきたりは18世紀前半に、当時の藩主により「戦国時代の遺風であり無益である」として廃止されている。ちなみに、宮城県を始め東北地方では現在でも人が亡くなると、葬儀前に火葬することが多い。いわゆる骨葬だ。
しかしながら、このことが伊達家の葬儀習俗にあやかったものであるかどうかは、不明である。
まだまだ謎が多い灰塚
この風習ではまた、遺体・遺骨を埋葬した墓とは異なる場所に灰塚を築く。これは近畿地方に多かった、遺体を埋葬した墓とは別に墓参りのための墓を建てる、いわゆる両墓制とも似ている。しかし、関係があるかはわからない。
更にもう一つ不思議なことがある。伊達政宗は禅宗の信者であり、現に遺体を埋葬した瑞鳳殿の付属寺院である瑞鳳寺も禅宗の寺院である。ところが、彼の灰塚は浄土宗の寺院の墓地にある。この点でも、灰塚は極めて謎の多い習俗であると言える。
日本では昔から、支配者層だけでなく庶民の日常生活などに関する記録も多かった。その中には葬儀の風習に触れているものも少なくない。しかしこれまでの述べてきたように、近世初頭の大名家の葬儀では独特且つ様々な風習があったようだが、それらの習わしについての記録が非常に少ないため、謎だらけなのだ。