終活は自分の人生をよき終わりにするために。そういった印象が、社会一般にはあるように私は感じる。
エンディングノート、お墓探し、お葬式、遺品整理といった終わりを迎える側からの能動的アプローチ。
終活という言葉を聞くようになってから常に疑問になっていたことなのだが、残される側、送り出す側としての終活だってあってもよいのではないか。
キッカケは祖父母の存在
そう考えるようになったのも、今年で齢92になる私の祖父と、寝たきりである祖母の存在によるところが大きい。
私は東京に在住しているが祖父は北海道に居を持ち、なかなか会いに行けるような距離でもなく、かといって私の実家で一緒に暮らすことも諸事情によって叶わない。
2~3年に一度会うたび、「もう会うのはこれが最後なんだろうな」と胸を痛めながら、小さくなった祖父の背中を目に焼き付ける。
孫である私はハッキリ言って、お墓やお葬式にはほとんど関わりがない。亡くなった後にお葬式には参列し、お墓へお参りにいくくらいである。
しかし、会うたび顔をくしゃくしゃにして握手を求めてくる祖父のために、生きている今だからこそできること何かないのかと考えるようになった。
今日笑っていた人が、明日の朝は冷たくなってしまっていることが本当にあり得ることを、強く実感したのである。
「より良き終わりになるかどうか」に他者が与える影響は大きいはず
私にできることは現実的に多くない。
寝たきりの祖母に対してはなおさらだが、少なくともふたりに充てた手紙を書いて送るということはできた。
医療的な検査のために東京へやってきた祖父に、私の大学時代の写真を持たせてあげることもできた。幼少期から今までと、僅かな残された時間を共に生きていける今だからこそ、私の今を伝えていく。
ほかにも会う機会があったなら、祖父からもらったネクタイを締める。私はあまり写真が好きではないのだが、ここぞとばかりに並んだ写真を都度残す。
これもひとつのできることなのだと最近、今更ながら気づいたものである。こんなことでも、泣いて喜んでくれる祖父母の姿は胸に沁みてならない。
いつまでも生きていてほしいと願う反面、やはり終わりを意識してしまう瞬間なのである。
終活というのは送り出す側だって、きっと温かさを伝えることだってできる。よき人生だったと最後の最後に言ってもらえるように、できることだってたくさんあるはずだ。