知人が「自分の代から一切の法事はしないことに決めた」と宣言して、親戚たちと軽い揉め事を起こしていると相談を受けた。親戚の説得に苦労しているという。
法事法要の意義や必要性にに必要性を感じない方が増えています
近年、わが国では冠婚葬祭などの慣習的な儀礼を改めて見なおして合理化していこうとする流れが強くなっている。
核家族化や個人の意志を尊重する社会傾向が進んで、各家庭が地域共同体と密接な関係を維持し、地域で守られている慣習儀礼をきちんと執り行わないと世間体が保てないという時代ではなくなってきたことの証左なのだろう。
高度経済成長期の大規模で費用のかかる葬儀方式が、本当に故人を悼む人だけを集めて行うコンパクトな葬儀に変化しつつあるように、葬儀の後に続く故人への供養である法要にも、その本来の意味を問いなおして、無駄な虚礼なら思い切ってやめてしまおうという気運が及んできているようなのです。
法要の起源を見なおしてみましょう
そもそも、初七日から四十九日までの「中陰(中有)」に始まる法要というものは、どういう根拠でなんのために行われるものなのかを調べてみますと、古代インドの宗教や儒教の影響、末法思想に基づく地獄の概念などから発生したものばかりで、本来の仏教とは基本的に関係ないということに気付かされ、かなり驚くことになります。
ここで法要の起源をざっと列挙してみましょう。
・「四十九日(七七日忌)」までの七日区切りの中陰法要は、仏陀誕生以前の古いインドの「四有」という思想に由来する。
・「百ヶ日」「一周忌」「三回忌」は、中国の儒教(後に道教でも)で冥土の死者を審判する十王への信仰による。
・「七回忌」「十三回忌」「三十七回忌」は、十王信仰が日本に地獄という考えかたを導入させた結果、死者の地獄落ちをさらに防いでもらうために十三仏信仰に拡大されて日本で増えたもの。
・「十七回忌」「二十三回忌」「二十五回忌」「二十七回忌」「三十七回忌」「五十回忌」「「遠忌(五十回忌以後)」は、江戸期にこれといった根拠なく付け加えられた。
※三と七の数字が多く現れるのは儒教の影響だとされる。
法要が慣習儀礼として定着した背景
仏教の本道とは無関係な数多くの法要が行われるようになった背景には、とくに江戸幕府による「寺請制度」という一種の宗教統制策が関係してきます。邪教の信者ではなく、れっきとした仏教徒であることを証明する「宗門人別帳」というものに記載され、いずれかの寺の檀家にならないと、旅行や転居が許されないことになったのです。
結果として寺は、現在でいう戸籍の管理元として役所のような機能を果たしていくようになります。宗門人別帳への記載不記載は菩提寺の一存に委ねられていましたので、檀家は事実上、寺院に人身支配されていたと呼べるほどの力関係が発生することになりました。
寺が檀家に(重要な収入源である)法要を行うことを強制できる環境が整ってしまったわけです。
「法要をしなければ成仏できない」「極楽浄土に行けない」と言われれば、無碍にこれを拒否できるはずもありません。一般の人々の間に法要が強固な慣習儀礼として定着するのにさして時間はかかりませんでした。
法要の在り方を改めて考えてみましょう
法要を「追善供養」と呼べば耳触りは悪くありません。
しかしながら、要するに日本の寺院は、成仏や極楽往生は金銭で賄えるとする安直な商売を延々と続けてきたのです。
知識が一部の限られた階級の独占物だった時代には問題にならなかったのでしょうが、現代の視点からは、法要など封建時代の遺物であり悪しき因習以外のなにものでもないと判断する人が現れてくるのは当然の趨勢かもしれません。
あらゆる稼業は時代の移り変わりとともに淘汰されていくものです。
日本の仏教界も頻繁に内省と自己批判を重ねて、日本仏教のこれからのありかたを模索している真っ最中です。法要を行うことの意味と必要性について根本から考えてみることは、死後の世界を信じる信じないに関わらず、今の時代にふさわしい故人の偲びかたのひとつになり得るのではないでしょうか。
「供養しないと祟りが起きるぞ」今でもこういうことを檀家に言って回る僧侶は実在します。
こんな強請りのような商売のしかたがいつまでも続く世の中ではなくすること。
それこそ現代社会に生きる者の義務ではないかと思うところでもあります。