「神も仏もあるものか」と人は嘆く。無慈悲な神に憤り、神を恨む。それは自身に死の影が迫るとき、大切な人を喪ったとき、家が流され、土地が沈む様を見せつけられたとき。一方で太陽に照らされ、空気が満ちて、水が生成される恵みによって生かされているのも事実。こうした二面性を持つ、人の力が及ばない大きな力を私たちは「神」と呼んだ。
科学万能時代に残る自然への畏敬
現代は科学の時代である。とはいえ、かつてのSF作品で夢想された未来都市はまさに夢となり、環境破壊などの負の側面を指摘され、科学技術に対する反省的な態度が促されている昨今ではある。しかし、結局ものの考えの基本は「科学的根拠」の有無にあるといってよい。科学批判も結局はSNSやマスメディアなどを通した情報空間無しには伝達できない。
だがそうした時代にあっても、自然が一度怒れるなら人類の科学技術では太刀打ちできない。近年、頻繁する災害や気候変動によって目の当たりにさせられたことである。今年(2025年)の米騒動もまた、私たちの生活は自然のご機嫌次第だということを嫌というほど認識させられた。困ったときの神頼みというが「神様」はそれほど都合の良い存在ではない。むしろ人知の及ばない強大な存在に畏れ、敬うことから信仰が始まった。畏れとは神の怒り、敬いとは神からの恵みへの心、これを「畏敬の念」という。畏敬の念とは、特定の宗教とは関係なく、神の二面性に対する敬虔な信仰態度といってよい。
破壊と創造を司るヒンドゥーの主神
シヴァはヒンドゥー教の神々でも主神として崇められることの多い、最も人気のある神である。「破壊」と「再生・創造」を司り、神話の描写でも慈悲深い面と恐ろしい面が描かれている。シヴァの特徴としてこの二面性が強調されることが多いが、破壊と再生、怒りと慈悲は、災害と恵みを与える「神」本来の姿といえる。シヴァは仏教にも取り入れられ、日本でも大黒天や不動明王として知られている。シヴァ=不動明王については諸説あるようだが、力によって煩悩を焼き尽くす忿怒の形相はまさに破壊と再生を併せもつシヴァを彷彿とさせる。
天照大神の「荒魂」にみる日本の神
「古事記」や「日本書紀」など神道の古典には、「荒魂(あらみたま)」「和魂(にぎみたま)」という対概念が見られる。神の荒ぶる面と和む面を示すものであり、神が破壊と創造、怒りと慈愛という相反する力を併せ持つ二面性を表している。
最高神・天照大神にも荒魂がある。伊勢神宮の「荒祭宮」(あらまつりのみや)の祭神は天照大神の「荒御魂」である。荒祭宮は内宮に属する別宮の中にあって第一位の「第一別宮」とされ、殿舎の規模も正宮に次ぐ大きさである。祈年祭・神嘗祭・新嘗祭、さらには20年に一度の大祭、式年遷宮の際にも正宮に準じる特別な扱いを受けるという。正宮、外宮と並ぶ格式といってよい。これは当然で天照大神の荒ぶる面である「荒魂」を粗末に扱えるわけがない。むしろ穏やかな正宮以上に慎重に向き合わなくてはならないだろう。万物の根源である太陽を見立てている最高神が荒ぶったなら怨霊どころの話ではない。一方でそのような「力」を備えているからこその威厳であるともいえる。「力無き正義は無力なり」というが、穏やかな慈悲だけでは畏敬の念は生まれない。日本の最高神は恐るべき力も有しているのである。
怨霊が「学問の神」になる構造
パワースポットという言葉には、半ば観光用語のような響きがある。しかしそこには強大な神の力の一端を分け与えて貰おうという、ある意味大胆な目論見が透けて見える。パワースポットなどと言わなくとも、神社仏閣に参拝する目的のほとんどは祈願やお守りといった現世利益だろう。祈願の中でも代表的な合格祈願には、天神様、つまり菅原道真信仰がある。道真は右大臣にまで上り詰めたが失脚し左遷先の大宰府で憤死。その後、怨霊として恐れられた。後年、優れた学者であったことから「学問の神様」とされ、天神様として祭神鎮座する太宰府天満宮は合格祈願の聖地となっている。とはいうものの、左遷されたことで怨霊になった神に、人生の成功を頼むとはやはり大胆というべきだろう。知恵、知識といえば、文殊菩薩や虚空蔵菩薩などがいるが、他人を蹴落として勝利を掴む受験戦争を勝ち残るには、怨霊が神となった天神様の荒ぶる力が求められるのではないだろうか。科学の歴史は自然を制御するための歴史といえるが、すでにその精神は、神の力を利用しようとする現世利益という形で現れていたのである。降りかかる不幸に神様なんかいないと嘆くのはお門違いというものだろう。
怒りと慈悲 最後の最後に人が求めるもの
神を畏れ、崇め、願い事を懇願し、災害、人生の不幸、死そのものに直面して憤る。神に対する人間の態度は、人間という存在そのものの反映に思える。だが大切な人が亡くなったとき、神の無慈悲に恨みつらみを述べながらも、別れに際しては手を合わせ冥福を祈る。自身が今生を去るにあたっても余程の無神論者ではない限り神仏に託すほかない。人が最後の最後で神に求めるのは、やはり慈悲、慈愛ということだろうか。
参考資料
■伊勢神宮ホームページ「別宮」
■拙稿:願いを叶える神と試練を与える神 私達はそれでも神に祈り願いを捧げる



























