「汝自身を知れ」という言葉は、古代ギリシアのアポロン神殿に奉納された箴言である。生きることの悩みや苦しみ、死ぬことへの恐怖。その答えは自分自身にある。それを直視することで実は自分はたくさんの人たちに生かされていたと知ることができるという。それが内観療法である。

内観療法のプロセス
内観療法は実業家で浄土真宗の僧侶でもある吉本伊信(1916〜1988)が、「身調べ」という修養法を元に創始した心理療法である。うつ状態や心身症などに効果があるとされている。その方法は、静かな部屋に閉じこもり用便や入浴など以外は外出を禁じられる。携帯なども没収され外界との接触は一切遮断。その中で自分自身を見つめていく。見つめるとは瞑想や座禅の類ではなく、自分の過去との対話を行うことである。具体的には幼少期から現在に至るまで、母に始まり、父・兄弟・配偶者・親戚縁者から、友人・知人・同僚などの関係者について順に思い出していく。これを「調べる」という。調べるのはその人たちから「自分がしてもらったこと」「自分が返したこと」「迷惑をかえたこと」の3点。曖昧な記憶ではなく明確な事実を正確に調べていく。特に「迷惑をかけたこと」が重視される。3点の中で最も直視したくないことであり、自身に厳しくしなくてはならないからだ。このようにして自分の過去を振り返り目を逸らさず、ありのままに想起、直視していき、2、3時間ごとに指導者と面接があり調べたことを話す。1週間これを繰り返していく。
エゴから感謝へ
私たちは一人で生きていたわけではない。多くの人たちに支えられてここまで育った。同時に未熟な存在としてその人たちに多大な迷惑もかけてきたはずである。当たり前の事実だが、普段はそんなことは意識せず、まして感謝などすることもなく生きているのがほとんどだ。感謝どころか反抗したり逆恨みすらある。最近は「親ガチャ」なる言葉があるが傲慢の極みといえるだろう。世間から遮断された空間でひたすら自己を探究していくと、自己に対する反省の念が生まれる。それが深まっていくと、自分がいかに多くの人たちに生かされていたのかがわかり、感謝の心が溢れてくる。わがままで自己中心的な人格を持つ者にとって世界とは、恨みつらみ、羨望や欲望だらけに感じるものだ。それが実は感謝するべき有り難い存在に満ちていたとシフトチェンジしていくのである。
精神疾患に悩まされる人たちの多くは世間と上手く折り合うことができず、自身を守るために自分は悪くない、今までの環境のせいなのだと自己防衛に走りがちである。内観が成功すれば、そうしたエゴが感謝の心へと変換され周囲の状況や人間関係が改善されていくことが期待される。
地獄か極楽か 浄土真宗異流「身調べ」
内観療法の源流となった「身調べ」とは浄土真宗の一部門徒の間に伝わる修養法である。阿弥陀仏への信心の獲得が目的で、希望する信者を隔離し、家族を含む一切の人間との交わりを断ち、断食・断水・断眠などを行う。そして「今このまま死んだら、自分は極楽行きか地獄行きか」という問いを自分に突きつけ自己反省をする。自分のこれまでの過去を可能な限り思い出し、自分が行くのは極楽か地獄なのかを自らの心に問う。過酷な状況な中での自己反省が窮まると、ほぼ自分は地獄行きだろうと考えるようになるという。長い人生の中では良いこともしたはずだし、普通に生きている限りは、地獄に堕ちるほどの悪行もしていないのが普通だが、多くの人は極楽へ行けるほどの善行は積んでいないだろうと考えるものらしい。このようにして、地獄行き決定を自覚すると、絶望し自分の力ではどうしようもないという「無常観」を持つようになる。その上でそれでも救われたいという渇望を自覚する時、阿弥陀仏にすべてを任せる以外ないとする絶対他力の信心を得ることができるという。
宗教から心理療法へ
吉本は妹の死をきっかけに、自分は、人は死んだらどうなるのかという問いに迷い、身調べを決意した。三度行いいずれも断念したが、四度目でついに真の信心獲得という悟りのような境地を体験をしたと語っている。その後吉本は身調べを一般に普及することを決意し内容を一新した。宗教的色彩を除き、過酷な状況作りを和らげて睡眠や食事を摂るなどし、本番の自己反省の行法も現代に合わせたものに作り変え、一般の人間でも実践できるようにした。そして、「地獄か極楽か」による無常観の獲得を、自分がこれまでに「どれだけ人の世話になってきたか」「何かお返しをしたか」「どれだけ人に迷惑をかけてきたか」の3項目によって生まれる罪悪感とその反省に変えた。つまり宗教的な死生観の追究という修行から、個人が抱える悩み苦しみを改善する療法へと変化したのである。
なお、身調べはかなりの荒行であり、一切の修行を否定する浄土真宗の教えからはかなり遠いように思われる。本願寺派などの正統派からは異義だと断言する声もある。吉本が所属した木辺派も由緒ある真宗正統派であり、身調べが木辺派の公式の教義というわけではなく、異流であることは明記しておく必要があるだろう。
脱宗教の中に息づく宗教心
吉本は死後どうなるのかという問題と、それを解決するための信心の獲得を求めて「身調べ」を行った。そこから宗教性を除き精神疾患改善のための内観療法に変革した。しかし、感謝の心が芽生えるという体験は、やはり宗教的な悟りに近い体験だと思わざるをえない。そしてまさに身調べが必要な場面が一般の人にも訪れる。それが終末期の場である。内観によって芽生えた感謝の心にはすべての人、すべての存在が有り難い存在となる。余命を悟ったとしても、今までの人生を感謝の心で受け入れられるようになるとも言われる。脱宗教性を強調する内観療法には、特定の宗教宗派ではない純粋な「宗教心」が息づいているのである。
参考資料
■吉本伊信「内観法」春秋社(2007)
■佐藤実柾「吉本式内観法について」『現代密教』 第6号 智山伝法院(1993)
■佐藤実柾「吉本式内観法について(2)」『現代密教』 第8号 智山伝法院(1996)