河の流れのように時は流れて絶えることはない。永遠に存在するものは何もなく、金持ちも貧乏人も貴族も下人も時の流れには逆らうことはできず最後は死んでいく。平安時代末期の随筆「方丈記」には、そうした日本人の無常観、死生観が綴られている。
方丈記
鴨長明(1155〜1216)の随筆「方丈記」は、冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」の一文が名文として知られている。平安時代というと絢爛豪華な貴族絵巻が思い浮かぶが、長明が生きた当時の都は災害や飢饉、疫病などにより荒廃しており遷都まで行われた。「方丈記」はその当時の災害や飢饉などの記録としても貴重で、息絶えた母親の乳房にしゃぶりつく乳飲み子の描写などは痛ましくも生々しい。長明はどれほど富や名誉があっても結局は滅び消えていく。そんなものに執着しても仕方ないと、世の儚さ、無常を悟り、出家して庵を結び隠棲生活をおくった。「方丈記」はその生活の中から生まれた。後半は粗末な庵での隠棲生活がかなり細かく描写され、無常な世の中からの解放感が綴られるが、ちらほらと俗世間に対する未練が見え隠れする。結局人間は迷い続ける存在なのだと結論づけるような結び方である。
変容する仏教
「ゆく河の〜」は名文として語り継がれている。同様の知名度を誇る一文に「平家物語」の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」が挙げられるだろう。日本人は儚さに愛着があるようだ。桜や紅葉の散りゆく様に美しさを見出し、天下人よりむしろ志半ばにして倒れた無念の英雄に共感したりもする。
おそらくそれは豊かな自然の中で生まれ育った者の感性ではないだろうか。日本には海がある河がある。山も森もあれば、四季の移り変わりもある。自然が与えてくれる大いなる恵みによって生かされてきた。一方で、あらゆる自然に囲まれているということは、洪水も火山も干魃などの飢饉もある。あらゆる自然が牙を剥く日常なのだ。自然によって死を与えられるとしても仕方ないことである。自然のままに生き、自然のままに死ぬこと。これを受け入れたことで日本人の心性に滅びの美学が生まれたのかもしれない。
「方丈記」は仏教的無常観と評されるが、仏教本来の教えはそうではない。確かに仏教は無常を説く。この世の一切は夢幻であるとする。しかし仏教はその儚い世を憂いて終わりではなく、修行をして悟りを開き、この世から解脱をするのが最終目的である。仏教の教えの基本「三法印」は、「諸行無常」永遠なものなどなく、「諸法無我」自分自身も存在しない。だから「涅槃寂静」悟りの境地へたどり着くために修行をせよと説いている。しかし日本人の元々の「自然のままに生きて死ぬ」気質は、「涅槃寂静」に至ることなく「諸行無常」で収まってしまった。日本にやってきた仏教は山川草木すべてに仏が宿っているとする本覚思想に再構築されたりもした。
隆暁法印の阿字供養
「方丈記」によると隆暁(りゅうぎょう)法印(1135〜1206)という京都・仁和寺の僧侶がいた。真言宗・東寺の副住職を努めた高僧である。4万2300人の死者を出したという養和の飢饉の際、京の都でも大量の餓死者が出た。路端には遺体が重なり異臭を放った。隆暁は彼らの供養を行ったがあまりに数が多く、死者の額に「阿」の字を記して回ったと伝えている。真言密教では「阿」はすべての音の始まりであり宇宙そのもの、つまり大日如来であるとする。隆暁は「阿」字を書くことで死者に大日如来との仏縁を結ばせた。死者を大日如来、宇宙そのものと一体になるよう、つまりは自然に帰した。隆暁はゆく河の流れに消えた命にせめてもの救いを与えたのである。この阿字供養は修行も悟りも関係ない。日本仏教らしい逸話である。
タイムライト
現代では「方丈記」の思想は厭世的過ぎて受け入れ難いかもしれない。ドラえもんの道具に「タイムライト」という時の流れを可視化する道具がある。点火すると時の流れが暴風のように見え、ゴウゴウという唸りが聴こえる。ドラえもんはのび太を諭す。「きみがひるねをしてる間も、時間は流れつづけてる。一秒もまってはくれない。そして流れ去った時間は二度とかえってこないんだ!!」
実に倫理的な道具で「方丈記」とは真逆の主張である。限りある人生だからこそ大切に生きなければならない。現代ならこちらの方が説得力があるかもしれない。しかし、それがしんどい時もある。生きるのに疲れたと言う人も多い。どちらを選んでも間違いではないが、できるなら死ぬ時に後悔だけはしたくないものである。
無常観・死生観を名文で味わう
「方丈記」は全文を読むのに30分もいらないと思われる。癒やしにはならないかもしれないが、自然の怖さ、仏教的無常観、日本人の死生観、人の心の弱さ、などを名文で知ることができる。なお原文もそれほど難しくない。現代語訳で内容を把握した後は、原文で読み返すことを薦めたい。
参考資料
■鴨長明著/蜂飼耳訳「方丈記」光文社古典新訳文庫(2019)
■鴨長明著/簗瀬一雄訳注「方丈記 現代語訳付き」角川ソフィア文庫(2013)